「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 私は朝日が差し込むロビーで九十度に一礼した。
 帝都プリンスホテル東京で働きだして、六年、そしてコンシェルジュとしては三年が経つ。 お客様のご要望に対応するのが私の仕事だ。胸に止めたコンシェルジュの文字とともに、『灰原』と自分の名前が刻まれたゴールドのネームプレートをもらった時は心底嬉しかった。私はこのホテルでずっと働きたいと思っていたから、なおさら。
 不規則な勤務体制だし、たまに理不尽なクレームをつけられることもある。それでも、お客様が笑顔でホテルを去っていく姿を見送ると疲れも吹き飛ぶというもの。
「今日もがんばろっと」
 小声でそう言いながら、スタッフ専用通路を歩いていたら、向こうから男性が一人バタバタと走ってくる。
 同期入社の佐原太一だ。スポーツマン体系の彼は長身でただでさえどこにいるのかすぐわかりやすいのに、朝から慌ただしく走ると、さらに目立つ。彼は今、ホテルのフロントでチェックアウト業務に追われているはずなのに、どうしてここに?人手が足りなくて、ヘルプを探しているのだろうか?
「大変だ!美希」
「朝から何?何かあったの?」
「何かあったどころじゃねぇから!」
「だから、な……」
「うち、買収されるらしい」
 私たちの間に数秒沈黙が降りてくる。
 ばいしゅうって何だっけ?
 一瞬フリーズした脳は思考を初期化させる。
 ただ、頭の中ではやばいというアラームがけたたましく鳴り響いて、徐々に脳が稼働し始める。
買収とは企業が第三者の機関の手に渡るということ。
「嘘でしょ!?」
 私の声は朝の作業で忙しなく人が行き来する廊下で甲高く響いた。