悪魔の宝石箱
第八話 蝶々
異都の人々が待ち望んだ、収穫の季節がやって来た。
光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって排泄のようなもので、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰って伴侶を抱く。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
その頃、環は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、発疹は落ち着き、時々は言葉らしいものを口にした。
「環?」
柳石が糸を紡いで織り物をしていると、眠っていた環が身をおこして彼を見上げた。
環は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに柳石はうなずいて、織物には短すぎる糸束を環の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ環は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、環が元気に過ごしているなら喜ばしい。柳石は環の頭をなでて、環の思うままにしていた。
「……その形」
柳石は環の作った拙い結び目を見て思案すると、環を抱いて立ち上がった。
環を洞から連れ出すのは久しぶりだった。環の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。柳石は煙を吸わないように環の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
環を隠すように羽織りで包みながら、柳石は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、柳石とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
柳石は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
柳石は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたんだな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、環には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたな」
柳石は石になった蝶々を見上げて、独り言のように環に言う。
「……生まれたのが異都でなければ、お前こそが普通の子どもだったのかもしれない」
結局、環は壁を一度も見ることはなく、柳石の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。
光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって排泄のようなもので、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰って伴侶を抱く。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
その頃、環は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、発疹は落ち着き、時々は言葉らしいものを口にした。
「環?」
柳石が糸を紡いで織り物をしていると、眠っていた環が身をおこして彼を見上げた。
環は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに柳石はうなずいて、織物には短すぎる糸束を環の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ環は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、環が元気に過ごしているなら喜ばしい。柳石は環の頭をなでて、環の思うままにしていた。
「……その形」
柳石は環の作った拙い結び目を見て思案すると、環を抱いて立ち上がった。
環を洞から連れ出すのは久しぶりだった。環の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。柳石は煙を吸わないように環の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
環を隠すように羽織りで包みながら、柳石は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、柳石とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
柳石は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
柳石は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたんだな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、環には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたな」
柳石は石になった蝶々を見上げて、独り言のように環に言う。
「……生まれたのが異都でなければ、お前こそが普通の子どもだったのかもしれない」
結局、環は壁を一度も見ることはなく、柳石の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。