悪魔の宝石箱

第九話 手招き

異都の四季はいびつで、収穫の秋の後に冬が来るわけではない。

 秋の後、坑道にはどこからか暖かくも冷たくもない霧が流れ込む。濃厚な白色をしていて光を通さず、灯りが役に立たない。人々は道に迷い、時には岩場で足を踏み外して命を落とす。

 けれど霧に惑い命を落とした者は、むしろ幸運だと言われた。異都の冬は厳しい。飢えと寒さで心身ともにやつれて最期を迎えるよりは、誰かに命の灯を吹き消されるように終わるのもそれほど悪くないと思えた。

 今年も霧が坑道に立ち込める時期になった。坑道の中は手を伸ばしてもその手の先が見えず、人々はめったなことで出歩くことはなくなった。

「こちらに行きたいか?」

 分かれ道で立ち止まった環に、柳石が訊ねる。

 去年まで、柳石もまた霧が満ちる頃は環を外に出すことはなかった。けれど今年は、必ず柳石が手をつないでいるものの環に自由に歩かせていた。

 環はうつろな目で右の坑道を見やって、そちらに足を向ける。柳石はそれを止めることなく、今日も二人は坑道を往く。

「……呼んでる」

 環の言葉に柳石は目を細めるだけで答えない。誰にと問い返すこともなく、環が時々思い出したようにつぶやくままに任せた。

 環は半刻ほどなら歩き続けられるようになった。水さえ自力で飲めなかった頃に比べればめざましい回復だった。

 ただ、環は同じ道を何度も通り、しばしば来た道を引き返す。何かを探しているように目をこらすこともあれば、何かに怯えたように表情を強張らせることもある。

「環」

 ふいに柳石は環の手を引いて引き寄せる。カラリと環の足元の小石が転がって、見えなくなった。

 気づけば二人は崖の縁に立っていた。崖の下からは白い霧が湧き出て、化け物が吐息をこぼしているようだった。

 環は崖の下に目をこらして、恐れと恋しさがないまぜになったような声で言う。

「お母さん」

 柳石はうなずいて、環と同じように霧の生まれる先を見やる。

「「黄泉(よみ)」……というんだ。異都の、古い名前だ」

 霧を頬に受けながら、柳石は懐かしそうに話し始める。

「黄泉は神々が集う、華やかな街だった。お前の母はそこの女王だったんだよ。美しく聡明な方だった」

 柳石はつっと目を伏せて声を落とす。

「だが、お前の兄たちは欲深く、残酷でね。女王を死の神に凌辱させて地底につなぐのと引き換えに、地上を切り分けて王になった」

 見上げた環の頬をなでて、柳石は言う。

「兄弟同士争い合い、瀕死のまま地上をさまよっている。死の神は女王を犯すのに夢中で、神々を地底に迎えようとはしない」

 揺れた環の目に気づいたのか、柳石はほほえんで首を傾けた。

「私は彼らに感謝しているよ。地底に繋がれていた化け物だった私が……こんな宝物を抱いていても、誰も取り戻せない」

 環の額と自らの額を合わせて、柳石は優しく話しかける。

「環、母が恋しいか?」

 柳石は環をみつめながら言う。

「私は化け物だが……出会ったときからお前に焦がれて焦がれて、今も狂っている」

 環はつうと涙をこぼして、手を伸ばした。

 倒れるようにして柳石の背に腕を回した環を、柳石はそっと抱きとめた。
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