恋を忘れたバレンタイン
 しばらくして、トレーナー姿の彼が入ってきた。
 スーツ姿しか見たことがなくて、リラックスした彼の姿は新鮮だった。多分、夕べも見たのだろうが記憶にない。


「すみません。分からなくて、目の前にあったもの掴んだだけなんで…… 今日は、我慢して下さい」

 恥ずかしそうに言う彼は、睨む時と違って可愛かった。


「助かるわ…… ありがとう……」

 自然に私もお礼を口にしていた。


「いいえ……」


「ちゃんと、お金返すわね。それと、昨日のタクシー代も…… お礼もちゃんとするわ」

 私は、当然の事を口にしただけだ。
 でも、彼は私を睨んだ。



「分かりました。お礼はしっかり頂きますから…… とにかく、風呂に入って下さい」


 そう言った彼が、ニヤリとしたのは気のせいだろうか?


 私は、いわれるがまま、お風呂に入っていた。 
 バスタブに浸かると、ほっと息がもれる。

 そう言われてみれば、化粧も落とさず寝てしまっていた。顔にお湯をかけると、気持がいい……


 湯船から顔を出しながら、すっきりする体と共に、冷静な思考が蘇ってきた。

 ここは、彼の家のお風呂だ。
 こんな時に誰か来たらどうするのだろう?
 ていうか、こんな事をしていていいのだろうか?  

 どうしよう…… 

 着替えまで用意させて、お風呂にまで入ってしまった。

 絶対に普通じゃない…… 


 しかも、化粧のとれた哀れな顔まで見せてしまった。
 最悪だ。
 私は、慌てて顔をバシャバシャと洗い始めた。



 脱衣所で彼が買って来てくれた下着をつけると、なんだか恥ずかしくなる。
 いやいや、照れている場合ではない……

 白い部屋着を手にして、これを着ている場合じゃない……


 着て来たスーツを着ようと思ったが、寝室に置いてきてしまった。


 下着のまま取りに行くわけにもいかず、取りあえず部屋着を着るしかない。
< 31 / 114 >

この作品をシェア

pagetop