恋の神様に受験合格祈願をしたら?

【side:菅野大志】

 電車を降りると、乾いた朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 眩しい日差しに目を細め、清々しい1日の始まりをのんびりと楽しむ。
 授業のない学校に向かうときって、なんで心躍っちゃうんだろう。
 少し癖っ毛の柔らかい髪を軽く手グシで整えると、俺はゆったりと歩きだした。
 種類がまちまちな制服姿の集団に混ざる。
 見るかぎり、俺と同じブレザーの生徒は1人もいない。
 いつもの駅にこれだけ生徒がいるのに、こんなことは初めだ。知らない街に迷い込んだ気がして、ちょっと心細くなる。
 いつもなら、「菅野くん」とか「大志」と呼びかけてくる声があるけど、今日はない。
 それもそうだ。
 今日は俺が通っている高校の受験日で、土曜日だから授業は休み。
 体育館と武道館以外の校舎を使用する部活は、漏れなく休み。
 委員会も、それ以外の活動も休み。
 唯一の例外は生徒会。
 今年度後期生徒会と来年度前期生徒会の引継ぎはもちろん、卒業式前日の予選会を控えた生徒会に休む暇はない。
 とはいえ、今年度後期生徒会役員のほとんどが来年度前期生徒会役員だし、前期と後期じゃやることが違うから、引き継げるものはほとんどない。
 期末テスト前の生徒会選挙で圧勝した俺は、今年度後期に続き、来年度前期副会長就任が決まっている。
 そんなわけで、今年度後期生徒会役員として予選会の準備、来年度前期生徒会役員としては早々に予算会の準備と、入学式翌日の新入生歓迎会の打ち合わせも開始し……。
 メンバーは最高に気の合う幼馴染ばかりだから、忙しさも楽しさに変わってしまう。
 だから、張り切れる。
 だから、二度寝の誘惑に勝てた。
 とはいえ、起きてから結構ボーッとしてたせいで、駆け込み乗車のギリギリだったけどね。
 本音を言えば、もう少し毛布と仲良くしていたかった。
「みんなも同じ電車に乗ってるもんだと思ったけど、全員まさかの遅刻か?」
 それとも、先に行ってるだけか?
 俺は使い込んで端が捲れてきた合皮の茶色いパスケースを、機械にタッチさせた。
 改札を抜ける。
 幼馴染だからみんな近くに住んでるけど、行きの待ち合わせはしない。
 ベッタリした仲じゃないから、幼稚園や小学校からの関係が長続きしているのかもしれないな。
 受験に来たのだろう学生たちの顔を見れば、どの顔にも笑みはない。こわばってるヤツ、頬を赤くしてるヤツ、難しそうな顔をしてるヤツ、すでに落ち込んでるっぽいヤツ、様々だ。
 そりゃそうか。
 全員が合格するわけじゃない。
 普通科は落ちたらそれまで。
 商業科の場合はいくつか種類があるから、自分が受けたとこに落ちても、別のとこに空きがあればそこへ入ることになる。
「頑張れ受験生」
 他人事の俺は、小さく呟いて微笑んだ。
 みんなの緊張、ほんのちょっとだけ羨ましい。
 俺の場合、欠席しないかぎり受かると担任だけでなく、学年主任や教頭にまで太鼓判を押されて受験したからね。
 今現在、俺は大学への推薦を狙いつつ、それがダメなら少しランクを下げて手堅く進学する予定だ。
 駅舎を出た。
 瞬間だった。
「キャッ!」
 女の子のか細い悲鳴が傍でした。
 斜め後ろというかほぼ横。
 長い黒髪が艶々しているセーラー服の女の子が、両手をコンクリートについて四つん這いになっていた。
 白くて小さな手から伸びる指に、淡い爪が飾りのようについている。
 中学3年生にしては、細くて小さな体が痛々しい。
 誰かに押されてコケたんだろうな。
 これから受験なのに、縁起が悪い。
「大丈夫?」
 俺はスクールバックを肩にかけ直しながら、俯き続ける女の子を起こそうと一歩踏みだした。
 俺の靴先に、白い小さな巾着が当たった。
 巾着は小さな鈴の音を響かせながら、30センチほど先に滑っていった。
 この大きさ……お守りかな?
「それ、キミの?」
 訊きながら、俺は踏まれる前にと巾着へ手を伸ばした。
 突き飛ばされてコケたうえ、お守りを踏まれるなんて、いくらなんでも受験生には縁起が悪すぎるからな。
 俺の指が巾着に触れる。
 同時に、大きな黒い物体が視界を遮った。
 伸ばしていた手に、潰される重みと激しい傷みが走る。
「ぐあぁっ!」
 あまりの傷みに、反射的に手を引こうとしたが、俺の手の甲を踏む色あせた黒い革靴が重しとなって動かない。
「うわっ! なんだよ。邪魔っ」
 俺の手に片足をのせたまま、サラリーマン風の男がしかめ面で見下ろしてきた。
 男と目が合う。
 朝のラッシュ時だし、踏まれたのは仕方がない。
 けど、踏んだ男の態度が許せない。
 未だに俺の手を踏み続ける男に、
「早くどけよ!」
 俺は素を曝けだすと、睨みあげた。
 男が少し怯んだ。
 重みが薄れた男の靴底から、巾着を拾いつつ踏まれた手を引いて立ちあがる。
 踏まれた手の甲は、人差し指と中指と薬指の付け根、中手骨の上の皮膚が捲れていた。
 鮮血がジワジワと滲みでる。
 俺の身長は174.3センチ。
 悔しいけど、30代前半そうなくたびれ気味の男より4センチほど低い。
 けど、眼力と怒りでは負けない。
 俺は男を睨む目に力を込めた。
 まわりが言うには、俺は少し甘めの柔らかい万人受けの顔立ちなんだそうだ。
 そのせいか、まわりには温和で知られてる俺だけど、実は幼馴染の仲間の中で一番ケンカっ早い。
 熱くなるほどまわりに興味がないため、温和説が独り歩きし、生徒会選挙で圧勝するほどの信頼を得ているけど、売られたケンカは漏れなく買う主義だ。
 ただし、普通にケンカを買ったりはしない。
「いきなり手をだしてスミマセンでした。ビックリしますよね」
 俺は言葉尻に挑発的な笑声をにじませた。
 そして、態と楽しそうな笑みを作ると、巾着を親指で手の平に抑えた状態で、怪我の部分を男の顔へ近づけた。
「踏まれて当然ですよね」
 男が俺から目を逸らした。
 睨み合いの敗者は、先に目を逸らしたヤツだ。
 優勢が決定した俺は、男の目を視線で追いながら、男の表情を読んでいく。
 男の戸惑いが色濃くなっていくのがわかる。
「こうなったのも自業自得ですよねえ」
 自嘲気味な笑みを浮かべる俺に、男は『ヤバいヤツにあたった』みたいな顔をした。
 男の頬が引きつった。
 男はのけぞるように二歩下がると、悔しそうに舌打ちした。
 そして、慌てたように俺へ背中を向けた。
 男は無言のまま、速足で去っていった。
「逃げんなら粋がるな!」
 俺は高ぶる気持ちを抑えきれず、小さくなった男の姿に悪態をついた。
 それから、落ち着こうと息を吐いた。
 途端、横からぶつかるようにして小さな体が俺にくっついてきた。
 それは、小さな白い二つの手を伸ばし、踏まれた側の俺の腕を掴んできた。
 えっ!?
 突然のことに、驚いた俺の心臓が大きく跳ねた。
「ゴメンなさい! ゴメンなさい! ゴメンなさい!」
 さっきまで倒れていた女の子が、悲愴な声をあげて謝り続ける。
 俯き続ける女の子に腕を掴まれたまま、俺は『やっぱり綺麗な髪だな』と女の子の艶つかな黒髪を見つめた。
 俺の手の甲に熱いものが触れた。
 傷口が沁みて、俺は思わず顔をしかめた。
 手を少し動かすと、濡れているのが見えた。
 水?
 違う。
 女の子の涙か。
「私のせいでゴメンなさい! ゴメンなさい! ……病院。でも、受験が。あのっ、鉛筆持てますか? 受験受けられそうですか?」
 女の子は声を震わせると、俺の腕を握ったまま顔をあげた。
 やっと見えた女の子の顔に、俺は目を見張った。
 息が止まる。
 言葉をなくした俺の耳から、雑踏が消えた。
 数秒くらい時間が飛んだと思う。
 我に返った俺は瞬いた。
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