偶然でも運命でもない
52.回想列車
「あ、それと4月から、鈴木は本社だから。引き継ぎと、荷造りしといて。」
「は?聞いてないんですけど!?」

3月の始め。
月初のミーティングの終わりに、オマケみたいに切り出された転勤の話に響子は思わず声を上げた。
支社長は半笑いになって「そう言うと思った。」と、呟く。
「俺も、昨日、聞いたんだよ。社長のご指名だ。……まあ、お前なら大丈夫だろ。あっちには岩井も菜々もいるし。」
「いや、どう考えても大丈夫じゃないですよ……九州ですよ。引っ越しとか、部屋探すのとか。今からじゃ無理ですよ。」
「費用は会社持ちなんだから、業者に丸投げすりゃいいだろ。」
「私、一応、女子なんですけど!」
「荷造りなら、ヒロコにも手伝わせるからさ。」
「仕事は?引継ぎの準備なんてしてないですよ。」
「それは、俺が手伝う!」
「……うーん、まあ、それなら。」
支社長に奥さんの名前を出され、手伝うと宣言されて、響子はなすすべも無く大人しく主張を引っ込めた。
きっと、また社長の思い付きなのだろう。
岩井の時はもっと酷かった。
来週から本社に来て。ただ、その一言で、彼の転勤と引っ越しが決まったのだから。
だから、これはまだマシなのだ。
響子は溜息をつくと、自分の席についてメールを開いた。


仕事が終わり、いつものように改札を抜け、買い物をしてホームに降りる。
2両目の前のドアの傍、定位置に乗り込んで、窓の外を眺める。
ふと、視線を感じて振り返った。
紺色のブレザー、グレーのスラックス。
見馴れた制服を着たその見知らぬ学生はヘッドホンをつけたまま、響子の頭上の電光掲示板をジッと見ている。
響子は溜め息をついて、窓の外に視線を戻す。
--もし、どこかで、もう一度出会うことが出来たら--
頭の隅で声が聞こえる。忘れようと思ってもずっと頭の隅に残る、ふざけていて、でも、優しい、大河の声。
ひとまわり以上も年下の男の子。
彼には、ずっと、からかわれているんだと思っていた。
どんなに隙を見せても、優しくかわされて。
困ったように曖昧に笑う姿も。
年頃の男の子って、もっとグイグイ来るもんだと思っていたから。
純粋でただ鈍いのか、それとも、本当に興味がないのかも、わからないままで。
時々甘えたようなその言葉も。きっと、全部、冗談で。
会えなくなる相手に連絡先なんて教えたくなかった。
--偶然、また会えたら運命でしょ?--
そんな都合のいい運命なんて、きっとない。
だから、それは忘れてしまおうと思っていたのに。

それなのに。
一年前のあの日。
最後の、最後に、強引に口づけをひとつ。
離れる瞬間に、甘い声で私を呼んで「俺は、あなたが好きだ」なんて囁いて。微笑んで。
私をひとりホームに取り残して、そのまま、彼は去っていった。
その言葉は、溶けない魔法みたいに、不確かな約束を胸に刻み込んで離れない。
私がここを離れたら、大河と再会することはきっと無いだろう。
あるいは。
もっと早く、彼の気持ちを確かめていれば……。
もし、連絡先を交換していたら。
ここを離れることに抵抗はなかっただろうか……?

彼の行き先は知らない。
彼について知っているのは、年齢と、名前と、海都という親友がいることくらいで。
あとは、コーヒーが好きだとか、チョコレートはイチゴ味が好きだとか、甘い卵焼きが嫌いだとか、漫画は単行本派だとか、月の絵とゲームが上手いとか、そんな些細なことばかりだった。
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