偶然でも運命でもない
60.彼女と俺の日常

「おはよう。」
響子を振り返った大河は、すぐに手元に視線を戻し、タイマーを見ながら真剣な目付きでポットのお湯をドリッパーに注ぎはじめる。
寝巻きのままの響子は大河の隣に立ち、食パンを袋から取り出して半分にちぎる。立ったままスマートフォンを弄り、パンを口に運ぶ響子を見て、大河は呆れた顔をした。
「座って食べなよ。」
「だって、時間ないんだもん。」
「じゃあ、珈琲は要らない?」
「えっ。やだ、飲む。」
「じゃあ、はい。」
「ありがとう。」
大河の淹れる珈琲は美味しい。
先日、岩井と菜々が『20歳のお祝いに』とプレゼントしてくれたドリップスケールとポットを大河はとても気に入ったようで、珈琲の研究に余念がない。
日に日に上達する珈琲の味は、今すぐにでも喫茶店のカウンターに立てるのではないかと思うほどになっていた。
「今日の予定は?」
「午前中は学校。午後から事務所に顔出して、夕方また学校戻るよ。……あ。ミーティングの準備してないや。」
「資料なら出来てるよ。」
「響子さん、お願い!それ、借して。」
「いいよ。……夕飯は?」
「どうしようかな……響子さんは?」
「菜々が中華行かない?って。駅前に出来たとこ。」
「いいね。俺も行きたい。ダメかな?」
「いいんじゃない?岩井くんも来るでしょ。中華は大勢の方がいいよね。」
「わかった。じゃあ、終わったら連絡するよ。」
「うん。菜々たちには伝えておくね。」
そう言って響子はカップに残った珈琲を飲み干すと、洗面所へと向かう。
歯磨きをして、ついでに花瓶の水を変え、自分の部屋に戻る。
身支度をしながら、クローゼットからその日に身に付けるものと鞄を取り出して、ベッドに放り投げるように並べる。
鏡の前でブラウスを羽織り、スカートに足を通して、タイツを履く。ボタンを閉めて整えたら、髪を梳かし、化粧をして、アクセサリーを着ける。
小ぶりなピアスと揃いのネックレス。今日はガーネット。
それと、大河から貰った、小さなダイヤのついたシンプルな指輪。
所定の位置に並べた鍵や財布やスマートフォンと一緒に、化粧品の入った小さなポーチと、のど飴やチョコレートを入れたポーチも鞄に詰め込む。
ジャケットを羽織って、もう一度、鏡をみて微笑んだ。
よし、今日も完璧。


10月の空は青く晴れて、朝の空気はひんやりと涼しい。
玄関に鍵をかけて振り返ると、響子はアパートの階段を降り始めたところだった。
会社と大学へ向かうには途中まで同じ道を通る。
早足で歩く響子に並んで、分かれ道の交差点で信号を待つ。
そろそろ変わる信号にフライング気味に足を延ばすと、響子に腕を掴まれた。
「あ、待って。」
響子は少しつま先立ちをして、大河の顔に頬を寄せる。
互いの頬を触れ合わせて、大河はその前髪にキスをする。
メイクが崩れるからと、唇にキスはさせてくれない。
その癖、人前で気にせず顔を寄せる響子に、大河は「慣れない」と思う。
一緒に暮らして半年が経つというのに、いまだに照れてしまう。
家の中では平気なのに。
恋い焦がれたものが、手に入った今も。それは相変わらずで。
彼女はいつだって、無邪気だ。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。また後でね。」
「うん。気をつけて。」
手を振る響子の後ろ姿を見送って、大河は苦笑した。
あの後ろ姿に恋をした。
3年前。彼女を追いかけて電車を降りたあの日から、俺たちの関係はゆっくりと変わっていった。
あの頃は、付き合うどころか、一緒に暮らすなんて想像もつかなかった。
赤くなった耳を冷ますように、少し早足で歩き出す。
時々、相手にされてないんじゃないかと思う瞬間がある。
ドキドキしているのは、自分ばかりで。
そんなことはないって、充分にわかっているはずなのに。
自分の二十歳の誕生日に、響子に指輪を贈った。
響子はこれ、どういう意味?と、大河を見上げて笑っていた。
本当はちゃんとプロポーズしようと思っていたけど、その笑顔を見たら、そんなのどうでも良くなった。
--これからもずっと一緒にいてください。--
口から出たのはそんな言葉で。
響子は、小さく頷くと、指輪を眺めて、
--今度は、ちゃんと逃げずに待ってるから。--
そう言ってまた笑った。
「俺、成長してないな。」
思い返して呟く。
きっと響子さんも。
「素直じゃないよな、あの人も。」
歩きながらイヤホンを片耳に入れて、昨晩、聴き逃した深夜ラジオの録音を再生する。
片耳のイヤホンから、ゆったりとした音楽が流れ始めて、歩く速度を緩めた。
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