月の記憶、風と大地
和人は会議を終え会議室から社長を見送ると、再び室内に戻る。


「ノリノリでしたね、社長」


社長を交えた会議を終え、和人を始めとする商品開発部の面々が後片付けに追われている。


「歓迎されないよりは、マシだがな」


ホワイトボードの文字をクリーナーで消す。

開発部の新商品展開は社長も気に入り、社長の知り合いの会社の従業員に、着心地についての感想をもらう事になった。
順に作業着にも着手する予定だ。

すでに何社かに話しはついている。

田上の腹が音をたてた。


「腹が減りましたね」


腕時計に目を落とすと、午後六時を回ったところだ。

緊張感がなくなった事も重なり、一気にエネルギー不足を体と脳が感じ取ったようである。


「部長、たまには一緒に飯でも食いに行きませんか」


田上マネージャーが和人を見る。


「若い連中で食え」


部下の気遣いは嬉しいが、上司がいたら堅苦しいものになってしまう。
口に出して音声にはしなかったのだが、表情でその部分が伝わってしまったようである。


「嫌だったら誘いませんよ。奥様の手料理の方が、いいんでしょうけれど」


田上は上司に気を使ったつもりである。
それが今の和人には最大の嫌味になっていた事は、知っていたかどうか。


「妻は今日は職場の飲み会だ。手料理には、ありつけそうにないな」


和人は資料をまとめる。

浮気発覚以降、そして弥生が働き始めてからは、和人は食事の支度や後片付けをする努力を始めた。

とは云っても、やはり料理は苦手なので専らスーパーで購入したお惣菜を並べた程度だが、疲れて帰宅した妻には感謝される。

以前の関係ではあり得なかった事だ。

外で働いていない妻が家事をやることは当たり前だと思っていたから、感謝の言葉を述べた事もない。


弥生は和人に従い黙々と家事をこなし、親戚や会社関係の人物にも落ち着いた対応をして、夫を支えてきた。

そんな妻を裏切り女を自宅へ引っ張り込んだ行為は、自分でも最低だと思っている。



「近頃の部長、丸くなりましたよね。以前は、こんな風に話しかける事も難しくて」



仕事だけを楽しみ家の事と会社は別だと割りきってきた。
美羽の事も只の肉体関係のみだと家庭と分け、社内では部下に上司として理解をしてきたつもりだ。


「奥さまも外食なら、部長もいいじゃないですか。これからの部の、モチベーションも上がります」
「……わかった。では、お邪魔するとしようか」


和人の言葉に、開発部の若い面々から歓迎の歓声があがる。

帰り支度をして部のメンバーと外へ向かって歩いていた時、別フロアにいた太田美羽が上の階廊下で、和人とすれ違う。

当然、二人は全く気づかないが、和人は上司として明るく接し、美羽は決意した表情で人事部へと向かっていた。












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