夏のわた雲にあの頃の君
夏のわた雲にあの頃の君
 二番目でもいいと思っていた。君が笑顔でいられるのなら、あの頃の僕は二番目のその位置で構わないと思っていた。
 ただ、君が僕のことを二番目だと思っていたかどうかはわからない。もしかしたら、二番目でさえなかったのかもしれないよな。
 今となっては、もうわからないけれど……。

 大人になった僕は、久しぶりにこの町に帰ってきていた。あの頃抱えていた記憶は辛すぎて、大学合格を機に、僕はこの町に寄り付かなくなっていた。戻ってきたとしても、実家の自室から出ることもなく、日がな一日家の中に籠り、二日と経たずにまた一人暮らしをしているアパートの部屋へと戻っていた。
 どうして外へ出る気になったのか。あの頃二人でよく歩いた道を辿る気になったのか。きっと、この空があの日と似ていたからだろう。
 わた雲が青い空にぷかぷかと浮いている。立ち止まってずっと見上げていたら、浮いている雲の一つが、なんだか君の横顔に見えてきて胸が締めつけられた。
 じっとしているだけなのに、照り付ける太陽が体中の水分を吸い上げ肌へと浮き上がらせる。汗がこめかみや首筋をツーッと伝っていった。
「あっちぃ……」
 わた雲を見上げていた顔を俯かせると、ポタリと汗がアスファルトの上に一滴落ち、黒い染みを作った。涙のような滴は間もなく渇き、何事もなかったようにアスファルトはまたじりじりと熱を放出する。時折吹く海からの風が、ほんの少しだけ暑さを和らげてくれた。
 この町はとても静かだ。港の近くへ行けば、波のうねりは聞こえるけれど、喧騒なんてものはないし、車だってそう頻繁に行き来するわけでもない。商店街だって寂れていると言っていいくらいで、シャッターを閉めているところも多い。僕たちが中学の頃にできたコンビニだけが、何だかこの町には不釣り合いなくらいに今も清潔感があって、事務的で、機械的で、浮いている気がした。
 たかだかそのコンビニまでの道程だった。僕の家から歩いて十分と少しくらいだ。彼女の家からだって、それほど遠くはない。電話で呼び出された彼女の足取りは、きっと軽やかだっただろう。その姿は、今も容易に想像ができる。
 昔彼女とよく寄り道をした駄菓子屋は、僕たちが中学に上がるころには店を閉めてしまった。

 中学二年の夏。陸上の部活帰りに自販機で買ったスポーツドリンクを、僕と彼女は喉を鳴らして飲みながら帰宅していた。寝具店の奥の暗い店内や、書店とは名ばかりで、おもちゃや文具も置いている店では高校生が漫画雑誌を立ち読みしている。魚屋も精肉店も店番のおじさんやおばさんは奥に引っ込んでいて、客が来てもなかなか気がつかない。そんなよくある田舎町の道を歩きながら、僕たちは渇いたのどを潤していた。
 息をひそめてしまった駄菓子屋の前でふと足を止め、店番をしていたおばあさんが去年の暮れに亡くなったことを思い出していた。確か九十歳を超えていたから大往生だよな。
「もう、よっちゃんイカ買えないな」
 ボソリと漏らした僕の言葉に、彼女は「きなこ棒の当り。うちにまだあるんだけどな……」と寂しげに呟いた。
 どうやら彼女は、もったいなくて引き換えないまま、先の赤くなった棒を大切に保管していたらしい。彼女らしいと言えば彼女らしい。
 その後二人で寄ったコンビニで、よっちゃんイカが売られていることに気がついた。けど、そのよっちゃんイカは大人買いとでもいうのか、透明な円柱の入れ物にまとめて二十本も入っているもので、僕たちはそのよっちゃんイカを前にして呆然としていた。
「二千円もするよ」
 彼女がよっちゃんイカから視線を外さないまま呟いた。
「うん……」
 僕も呟いた。
 駄菓子屋で買えなくなったから、その大量に入ったよっちゃんイカを買うためにお金を貯めよう、という気にはなれなかった。ちまちま買うからいいのであって、まとめ買いはもっと大人になってからでもきっと遅くない。大人になった彼女と一緒に、懐かしいな、なんて言いながら買えばいいと、その時は思っていた。そんなものは、いつだって買えると思い込んでいたんだ。
 だけど、それは甘い考えで。現実というのは厳しくて。僕は、その現実に打ちひしがれることになる。後悔してもしきれないほど、悔やむことになる。
 こんなことなら……。
 彼女がよく買っていたきなこ棒は、コンビニには見当たらなかった。
 彼女の姿とともに、大切なものが全て僕の目の前からなくなっていた。

 神社の裏手には、子供でも簡単に登っていける小さな山があった。ハイキングコースとは言い難いけれど、それなりの道が出来上がっていて、二十分もあれば山の頂上に辿り着けた。
 頂上には、一応展望台があった。小銭を入れると観えるらしい望遠鏡が一台設置されていたけれど、それを使っている人を僕は見たことがない。
 だだっ広いだけで特に何もない頂上だから、わざわざ好き好んで登って来る人も少ない。よく解らない広場を、半分だけ地中に埋められたタイヤが丸く囲うようにして並んでいた。彼女はそのタイヤの上に乗って、よく跳ねていた。
 楽しげに口角を上げていた彼女の笑顔が大好きだった。ほんの些細なことにでも楽しみを見出し笑うから、僕はいつだって彼女の笑顔につられて、一緒に声を上げて笑っていられた。彼女とだから、笑顔でいられたんだ。
 今の僕はには、つられて笑顔になる人などそばにいない。顔を上げることさえ億劫になるくらい、笑うという行為が遠ざかっていた。無理に口角を上げてみたところで、心の中はちっとも明るくならないし。ただ、空しさに頭をたれてばかりだ。
「僕のそばで笑ってくれよ……」
 知らず漏れ出た泣き言と共に、また一粒汗のような涙がアスファルトを一瞬だけ黒く染める。
 僕は、あの頃と同じスポーツドリンクを手に、汗を流しながら懐かしい小さな山を登っていた。あの日、彼女ともこうして登っていた。

 高校一年の夏だった。
「ねぇ。付き合うことになりそうなの」
 サクサクと足を前に出して登っていた彼女は、少しだけ歩を止めて後ろに続いていた僕を振り返った。その顔はあまりに眩しくて、ずっと好きだった相手と両想いだったと僕に向かって笑顔を見せた。
瞬間、胃の中がキュッと縮まり、飲んだスポーツドリンクが胃酸とともに込み上げてくる気がした。彼女に気づかれないよう、そっと左手を腹部に当て、後悔という感情が蠢く内蔵の気持ち悪さをなんとか抑え込もうとした。
 間を置き、僕は笑みを張り付けた。
「よかったな」
 僕は得意気な顔をし、平気なふりを装ってそう彼女に返した。頭の中ではゴーゴーと嵐のような地鳴りが響いていて、言葉とは裏腹な感情を煽ってくる。
違うだろ。そんな言葉、違うだろうっ。よかったなんて、少しも思っていないくせに、いい人ぶりやがってっ。
煽られた感情に、何度も口を開きかけた。本当のことを言ってしまえと喉元までやってきた感情を、僕は馬鹿みたいにヘラっとした表情で飲み込んでしまう。自分の心に蓋をする事で、彼女のそばにいられる関係を守ろうとしていたんだ。
「言うとおりに告白して正解だった」
「やっぱりな、そうだと思ったんだよ。ホント、よかったな」
 頭や感情とは裏腹に、僕の口からするりと出てきたのは、とても分厚い仮面を被った偽りの言葉だった。その仮面を何枚剥いだら、本当の気持ちを伝えられたのだろう。長年もそばにいて、何枚も何枚も心とは対照的な言葉を被せてきたから、今更本当の気持ちをさらけ出すにはどうしたらいいのかわからなくなっていた。本当の気持ちを伝えることが、怖くてたまらなかった。
 バカな僕がした提案に、彼女は素直に従った。そうしてこの結果を生んだのだ。こんなにすんなりとまとまるなんて思いもしなかった。僕は本当にバカで、浅はかで、情けない男だ。
 僕はいつだって二番目だった。他愛もないことを話し、愚痴を言い合い、何もない山に登り、スポーツドリンクを飲むだけの間柄だ。周囲は、幼馴染という目で見るけれど、僕に至っては幼馴染以上の感情を抱えてきたから、そんな奴らの言葉に耳を貸すつもりはなかった。ただ、彼女を悲しませることだけはしないと誓っていたから、彼女が他のやつを好きだと言えば、相談にのり、アドバイスをし、協力をしてきた。
 本当にバカだと思う。本当の自分をさらけ出さないままそばにいるなんて、なんの意味もない。
 いつかこの二番目の位置を追い越し、僕が君の隣にいる日が来ると思っていたのだから。

「風が強いな」
 頂上に辿り着き、少し伸びてきた髪を風がさらうように吹きつける。握りしめていたスポーツドリンクのキャップを開け、一気に半分まで飲み干した。
 空にはまだわた雲がぷかぷかと浮いていて、よく見ると彼女の顔に見えそうだからとまた目を逸らした。
「二番目以上になれないままだったな……」
 呟きは風にさらわれる。

 車の通りはけして多い町じゃない。だけど、彼女はその場所で儚く散った。
 前方不注意。どっちが? 車が? 彼女が?
 人の通りも少ない町だから、目撃者はいなかった。
 ただはっきりしているのは、僕の前から彼女の姿が消えてしまったということだ。僕を二番目にしたまま、一番目にのし上がるチャンスをくれないまま、彼女の存在は儚く消えた。僕の想いは何枚もの厚い皮に覆われて、その姿を晒すことなく今も奥深くに潜り込んでいる。
 
 空に手を伸ばす。君に届くような気がして手を伸ばす。
 あの日、もっと早くそうしていれば、君は電話で呼び出されることもなく、たまたま通りかかった車に接触することもなかった。
 結局僕は、安心できる二番目の位置を気取っていただけにすぎないのだろう。君の笑顔が好きだからとか。悲しませる言葉は言いたくないだとか。寂しいならそばにいて、悩んでいるなら気持ちを吐き出させ。そんな風にすることで自己満足に浸っていたにすぎなかったんだ。
 握りしめたペットボトルの中で、スポーツドリンクが波を打つ。
 展望台にのぼり、緑と青の境界線のずっと奥を見つめ、今は語ることもできない君の存在を探してしまう。頬を伝う涙を吹く風がさらって行く。
「くそっ……。くそっ。くそっ!!」
 後悔の言葉なんて何一つ口に抱きなくて、ただひたすら自分を罵倒した。情けなくそばにいることだけに固執した、どうしようもない自分の弱さを罵倒した。
 夏の空は青く、わた雲がぷかぷかと浮いている。
 君の横顔のようなその雲を見つめていると、自分の愚かさに涙が零れた。

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