──急がなきゃ。

左肩には通勤用の黒いトートバッグ。もう片方の手は先ほどスーパーで買ったばかりの食材が入ったエコバッグを持ちながら、足早に歩道を進む。

職場であるカフェから自宅までは、徒歩で20分ほどだ。カフェを出たのが16時半過ぎで、今はもう18時前。

せっかくいつもより早く上がらせてもらったけれど、スーパーにも寄ったらもうこんな時間になってしまった。……“彼”が帰るまでに、夕食を作り終えていたかったのに。

ままならない気持ちを落ちつかせるように息を吐きながら、右に曲がって石畳の道に入る。この公園をつっきると、自宅マンションまでの近道になるからだ。

こんなにも焦っているのには、まだ理由がある。

今朝、彼が出勤してからこっそり私物の整理をした自室を、そのままにして家を出てきているのだ。

彼が普段、私の部屋に勝手に立ち入ることはない。
けれど今日は片付けに没頭しすぎて遅刻ギリギリの時間にバタバタと家をあとにしたせいか、自室のドアをきちんと閉めたかどうかが曖昧だ。

もし彼が、荷物を詰めた大きなトランクやダンボールが置かれた部屋に気づいたら。きっと疑問に思い、私を問い詰めるだろう。

そんな打ち明け方は、本望じゃない。どうせもう告げると決めたのだ、ちゃんと自分から、誠意を持って話をしたい。

……そのために今日、彼に『帰ったら大事な話がある』と伝えてあるのだから。

夕方とはいえ、照りつける夏の日差しにはまだまだ威力がある。

じんわりとひたいににじんだ汗を拭うため左手を上げ、その薬指に光る銀色に目を留めた。

ライン状に並ぶメレダイヤモンドが光を反射する、緩やかなカーブを描いたプラチナのリング。

これと同じデザインで石がついていないものが、彼の左手の薬指にもはめられている。



「……ッ」



思わず涙が浮かびかけて、ぐっと目もとに力を込めた。

……ダメだ。泣くな、泣くな。

彼から離れることを決めたのは、自分自身だ。自分の意思で、別れを告げることを選んだんだ。