恋、花びらに舞う
4. 手毬花


朝をゆっくり過ごす客が多いのか、朝食の席は思いのほか混み合っていた。

それでも、和真の指定席である窓際の席に案内されたのは、彼がこのホテルを常宿とする得意客であるためである。



「紫陽花が見頃になりました」



サービスのため席にやってきたホテルスタッフの声に、和真は庭に目を向けた。

今朝まで降った雨の名残りか、紫陽花の大きく広げた葉をつたう水滴が朝日に照らされて輝いている。

華やかな大倫の花に由梨絵が重なって見えた。

フランスからイタリアへ移動する合間を縫って帰国したのは、ほかでもない由梨絵に会うためである

電話は苦手ということもあるが、直接会いに来た相手をむやみに追い返したりはしないだろうとの目算もあった。

大学の事務局で名乗り、名刺を渡して 「後藤由梨絵先生に、チームのメンタルトレーナーをお願いしたい」 と伝えたら由梨絵に会えるだろうと考えた。

口実が思ったより大事になり学長室に通されたのは予想外だったが、由梨絵に会う目的は達成された。

嘘から出たまこと……と、あとで由梨絵に笑われることになるのだが、由梨絵はレースチームのメンタルトレーナーを引き受けることになり、その打ち合わせと称して連れ出し、金曜日と土曜日の夜を一緒に過ごした。

仕事の話もプライベートの話題も、由梨絵の前では驚くほどスムーズに言葉が出てくることに、和真自身が驚いている。

夜を過ごしたと言っても食事だけ、語りながら楽しい時間を過ごしたあと、もう少し一緒にいようと誘っても由梨絵は笑うだけで誘いに応じない。

和真の挑むようなキスにのまれることもなく、唇が離れると 「おやすみなさい」 と涼しい顔で去っていく。

力づくで連れ戻しホテルの部屋に押し込むこともできるが、由梨絵が素直に従うとは思えない。

力でねじ伏せたと思われるのも嫌である。

そんな和真のプライドが、強気な行動を控えさせた。

今日は由梨絵と会う約束をしていない。

用事が入っているから会えないと言われ、それでは夜会おうと言うと、用事が長引くかもしれないから約束はできないとつれない返事だった。

和真の気持ちを試し、じらしているのかもしれないと思ったが、確かめるすべはない。

由梨絵の心をつかめず悶々とするばかりである。

どうしたら彼女をこの手にできるのか……

腕の中で由梨絵の悩ましい顔を見られたら、最高の気分だろう。

雨に濡れる紫陽花を見ながら妄想に浸っていた和真は、呼ばれたことに気がつかなかった。



「……朝比奈さん。朝比奈さん、おはようございます」


「あっ、おはようございます」


「お食事中すみません。昨年の若獅子会でご一緒した高辻です。その節はありがとうございました」



和真に声をかけた若い男は、「高辻壮介です」 とあらためて名乗り綺麗な所作でお辞儀をした。

若獅子会と聞いて、和真は若手経営者や後継者が集まる会のゲストに招かれたことを思い出した。

目の前の彼が会の幹事だったこと、父親は関西経済界の大物 「高辻興産」 の社長でレースのスポンサーであることも思い出した。

高辻は丁寧な礼を述べたあと、自分も昨夜からこのホテルに泊まっている、ここで会ったのも何かの縁、お願いがありますと切り出した。

今夜、高辻が関わるある会に顔を出してもらえないかという。

若獅子会と似たような会だが、もう少し気楽な席で、朝比奈さんのファンも多いのでぜひと熱心に誘われた。

面倒だな……と思ったが、高辻の次の一言が和真の気を変えた。



「チームのみなさんも一緒にどうぞ」



和真はレースチームとともに行動することが多いと知っている高辻は、今回もそうだろうと思っての誘いだった。



「メンタルトレーナーが一緒でもかまいませんか」


「もちろんです。歓迎いたします」



今回の帰国はメンタルサポートのスタッフを見つけるためで、優秀な人材を確保できた。

彼女を紹介する良い機会である……と、和真は熱心に語った。

これで由梨絵を誘う理由ができた。

ほくそ笑む和真は、和真の承諾を得て大喜びで去っていく高辻の背中を見送ったあと、さっそく由梨絵へ電話をかけた。



『急な話だが、今夜付き合ってほしい。俺の顔を立ててくれないか』



スポンサーの頼みで若手経営者の会に顔を出すことになった、スタッフもどうぞと言われたが、あいにくメンバーとは別行動で誰もいない。

由梨絵が行ってくれたら助かるのだがと、必死さをにじませた訴えが効いたのか、



『いいけれど、どこに行けばいいの?』



由梨絵は和真の誘いをあっさり承知した。

待ち合わせの場所と時間を伝えて電話を終えると、思わず拳を握りしめた。

今夜こそ彼女を……そう考えるだけで力が湧いてくる。

イタリアへ発つ日は明後日に迫っていた。

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