エスプレッシーヴォ
二人で並んで歩いているとパーフェクトな夫婦に見えるかもしれない。
揃いの結婚指輪を光らせて、女性の歩く速さに合わせるようにゆっくりと半歩程先を行きながら歩く男性は身長百七十八センチの細身で爽やかな医者だ。

決して派手ではなく、品のよいグレーの薄手のジャケットを羽織り、細身のパンツを履きこなして、並んで歩く女性の瑛子もモデルほどではないにしても平均よりもすらっと伸びた身長、手足で毛先までなめらかなロングヘアを揺らして歩く姿が愛らしい目鼻立ちの整った女性だ。

親同士が知り合いで結婚した若い夫婦は笑顔で銀座の街を歩く。世間的に認められる関係であり客観的に見ても何の問題もない。
瑛子はほんの数十センチ先を歩きながら自分の様子を気に掛ける博樹の顔をじっと見た。
「足が痛い?」
六歳年上の旦那様の優しいの質問に瑛子は笑顔で首を振る。七センチヒールくらいでは疲れない。まして、今日はいくらか歩くだろうと思って歩きやすいアンクルストラップのパンプスを選んだのだ。
父親の後輩の息子、という博樹と結婚したのはほんの半月ほど前のことだ。親しい友人、親族だけを集めた葉山の結婚式で誓いのキスを軽くした以外、私たちは特に触れ合うことはしていない。

「結婚しませんか」
それは五回目のデートのとき、品川のホテルで食事をしたときだった。博樹は三十一歳の誕生日を迎えたばかりだった。その前のデートのときに瑛子が三十一年物のワインをプレゼントしたことがプロポーズの決め手ではないと思う。
「ええ、喜んで」
そう言って瑛子が微笑んだのは嘘でも照れ隠しでもなく、本心だった。喜んで、という気持ちが目の前にいた彼にどのくらい伝わっただろうか。
二人で少しだけ恥ずかしそうに微笑んで見つめ合って軽くグラスを傾け合った夜は、結婚した今となっては一番幸せだった夜ではないかとすら思う。
振り返ってみれば、「好き」も「愛している」ももらったことがない。いっそ肉体だけでも求められていれば、夫婦としての実感が得られていくらか楽だっただろうか。

「ディナーはどうしたい?」

銀座四丁目の交差点で和光の時計台を背景に瑛子に微笑む彼に瑛子もまた軽く微笑んで魅せる。彼は決して一人で決めない。瑛子の意思を尊重する。

「どちらでも」
「困ったな。どうしよう」

そう言って悩ましそうな顔をしながら笑って博樹は瑛子の負担にならないように周辺のレストランに予約できるか確認をとる。東京はお金を出せばいくらでも楽しめる場所だ。

瑛子は、母親から教わったおすすめの筑前煮や炊き込みご飯、洋食ならアクアパッツァやスパニッシュオムレツなどの定番料理は作れたし、自宅で二人で過ごすのもいいと思っていた。野菜を刻むことも食器を洗うことも少しも苦ではない。でも博樹が外で食事しようというのならそれはそれだと思い了承する。
博樹と歩く銀座の街はきらきらまぶしい。他の誰でもこうはいかない。恋の力かと思う。博樹にはこの街がどんなふうに見えているだろう。
並木通りの片隅で電話を切ると博樹は瑛子に微笑んだ。なにやら予約を済ませたらしい。

「以前同僚と行ったフレンチでね、カジュアルな雰囲気だけど、おいしかったから。」
「ありがとう、楽しみよ」

そう言って銀座の街を歩く。博樹は瑛子の半歩前を歩きながらそのペースを確認して、ときに少しゆっくりと足を前に出す。勝手に先に行ってしまうということは間違ってもない。目が合うと瑛子は自分のために微笑んだ。博樹に嫌な気持ちにさせないように、昨日よりちょっとでも自分を好きになってもらえるように。

「ワインを飲みましょうね」

瑛子は微笑んだ。四月、桜の季節によく似合うピンク色のリップを塗って、紺色のワンピースを着て、春らしいベージュのパンプスの踵を鳴らす。

それから瑛子の化粧品と友人へのギフトの買い物に付き合い、フレンチの店に入った。二人で飲むワインは美味しく会話が弾む。日曜の夜にふさわしい笑顔だった。

足りないことの多さは街のきらめきやおいしい料理とアルコールがごまかしてくれていた。

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