一筆恋々

【四月二日 手鞠より駒子への手紙】


兄思いの駒子さん。
大好きなお兄さまを思うあまり、お心をどこかへ見失ってしまったのですか?
恋文の添削をしてほしい、とはいったいどういうことでしょう?
(さと)い駒子さんの言葉とは思えません。

いえ、わたしだってできることならば、恋を(たなごころ)で弄ぶがごとく、さまざまな助言を与えて差上げたいのです。
しかしわたしが恋文なんていただいたことも、書いたこともないことは駒子さんもご存じのはず。
恋におけるわたしの経験は、どこまでもつづくまっしろな雪原。
足跡ひとつ、物音ひとつない、うつくしいまでの無。
しかも雪解けははるかな先です。

古来より「溺れるものは藁をもつかむ」とは申せど、藁をつかんだとて助からないことを、いま一度八束さまにお伝えください。

どうしてもわかってくださらない場合は、英家には立派な螺旋階段がございましたね。
ちょうどよい大きさの古伊万里の壺も応接室でお見かけしました。
あの壺なら小柄な駒子さんでも持ち上がるでしょう。
八束さまがお帰りになって、階段をのぼる手前が頃合いかと存じます。

さて本日わたしは、久里原呉服店に行って参りました。
蘭姉さまのお相手を一目見たくて。

店先に静寂さんらしき方はいらっしゃらなかったので、裏手に回って塀の内をのぞいて参りました。
双眼鏡が見つからなかったので代わりに虫眼鏡を持参したのですが、折悪く静寂さんを認めることは叶いませんでした。

残念ではありましたが、塀にのぼるのを手伝ってくださった方と楽しくおしゃべりしながら春のお庭を眺めて参りました。

久里原呉服店は賑わっていました。
呉服、太物ばかりでなく、近ごろは洋服生地も扱っているそうです。
仕立て職人もたくさん囲っていて、わたしも何度かお世話になりましたがとても評判はいいようです。

持参金目的の縁談とはいえ、姉が明日の米に困ることはないでしょう。
あとは静寂さんがやさしい方だといいのですが。

お互い見守るしかない立場は辛いですね。


大正九年四月二日
手鞠
駒子さま



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