愛しの彼はマダムキラー★11/3 全編公開しました★
第七章
結ばれた二人。

もし前回泊まった時になにもなかったのなら、初めての経験になる。なのに痛みは一瞬しか感じなかった。
ただただ星佑の甘い声に震え、指先に踊らされ、淫靡な波に呑みこまれた夜だった。

朝の五時。
猛ダッシュで星佑のマンションから走り出た美海は、メイン通りから路地に入りこむと頭を抱えてしゃがみこんだ。

――あーーーっ! どうしよう! どうしよう、どうしよう、どうしよう!

脳裏に浮かぶ星佑は、目を細めてニヤリと笑う。

――し、しかたなかったのよ。今更結婚していないことがバレたら大変だもの。
そうよ、そうなのよと自分を励まして深呼吸をすると、美海はすっくと立ち上がった。

路地から顔を出し、キョロキョロとメイン通りを覗く。
といっても誰かに追われているわけではないのだから、そんなことをしても意味がない。
それにまだ早朝で、日中は賑わう通りも人影はまばらだ。

ハァっとため息をついた美海は、がっくりと肩を落としメイン通りに出た。トボトボと自宅マンションへと歩き始める。


星佑がまだ寝ている間に、大急ぎでマンションを飛び出してきた。

前回泊まった時は、朝までぐっすり寝ていたので記憶が無い。なので、もしなにかあったとしても、何もなかったことにできた。

でも、夕べのことはそんな言い訳は通用しない。

――あんなことや、こんなこと……。

合わせた肌のぬくもり。
体をすべる指先、彼の生々しい息遣いまでもが鮮明な記憶と共に浮かびあがる。
『きれいだよ、美海』
ふいに耳元で囁かれたような気がして、ハッとして立ち止まった。そのまま真っ赤に頬を染めて、「キャア」と両手で顔を覆う。

――恥ずかしいぃぃぃ。
驚いた通行人がギョッとしたようにのけぞり、怪しみながら美海を避けるようにして通り過ぎていく。


マンションに戻ってホッとひと息ついたところで、さて、どうしようと考えた。
してしまったことは仕方がないとして、問題は璃鈴への報告だ。

夕べのことはさすがに言えないが、璃鈴がほしがっていた証拠はとれた。
『言うこと聞いてくれないと、ご主人に浮気をバラしちゃうよ』という星佑の脅し文句。
確認してみたが、とっさにスイッチをオンにしたペン型録音装置はちゃんと機能していて声はちゃんと拾えている。

――悪魔め!
忌々しげに悪態をついたが、本当はわかっている。

結局、負けたのだ。

脅されたことよりも、美海は誘惑に負けたのだった。
あの甘いキスの誘惑に……。


スマートホンを手にしたまましばらく悩んでいた美海は、思い切って璃鈴にメールを送ることにした。とても直接話をする自信はない。
『とんでもない女ったらしみたいよ。誘惑してる声はとれた』
相手が自分だと言わずに報告することにした。
        
自分への言葉を、女性客が来た時に社長室にスマートホンを置きっぱなしにして会話を録音したのだと嘘をつき、一部カットして音声ファイルを添付する。

星佑に対して罪悪感がないわけではない。
でも、彼のあのセリフはやはり悪魔のなせる業だ。

美海が結婚していなからいいようなものの、本当に人妻だったらと思うと恐ろしい脅迫である。
誘惑に負けてしまったとはいえ、むしろ溺れないためのブレーキかできて良かったと、自分に言い聞かせた。


週明け。

その後の星佑は、邪悪な影を二度と見せることはなく優しかった。

いっそ悪魔のままでいてくれればと思うのに、出かけた先で買ってきたよとお菓子をくれたもする。
どんどん惹かれてゆく自分に戸惑い、鬱々とした週末を過ごした。


そんなある朝、通勤途中に偶然、元バイト仲間のヒサシと出会う。

「あら、ヒサシくん」
「美海ちゃん、あれぇ?なんだか綺麗になっちゃって。ねー飲みに行こうよ。今夜ならバイト入ってないんだけど、どう?」

一瞬迷ったが――私もあいつのように割り切れる大人になってやる。
そう心に誓い、ヒサシと飲みに行くことにした。

「うん。私も空いているからいいよー」


ヒサシは楽しかった。
「彼氏いないの?」
「限定の彼なら、ひとりいる」

「限定? なにそれ不倫?」
「違うわよ。でも半月後には別れることになってるの」
言いながら、気がつけば残り半月となっていた事実に、チクリと胸が痛む。


あくる朝。
重たい頭とムカムカするお腹をさすりながら美海は出勤した。

完全に二日酔いだ。

――参ったなぁ。
途中からノンアルコールカクテルしか飲んではいない。でもそもそもお酒に弱いのであっけなく撃沈してしまった。
さすがにヒサシと間違いを犯すわけにはいかないので、早々にタクシーで帰ったが。

デスクに膝をついて頭を抱えていると、カツ、カツ、と靴音がした。
ハッとして顔をあげると、そこにいたのは――。

「誰と飲みに行ったの?」

軽く屈んで、美波の顎を指先ですいあげた星佑は、「悪い子だ」と囁きながらゆっくりとキスをする。
――えっ……。
唇から注ぎ込まれるのは、甘い悪魔の誘惑だと美海は思う。
あらがえるはずがない……。

昼前の十一時。来客があった。
「社長、朝比奈さまがいらっしゃいました」
秘書が開けたままの扉から、ひとりの女性が現れた。四十代と思われる、やけに色っぽい美魔女だ。

――あ、あの人。
その女性は美海も雑誌やテレビを通して知っている。
彼女はファッションブランド『SIKIKO』のデザイナーでオーナー『朝比奈シキコ』

スッと立ち上がった星佑は、「お待ちしておりました」と、彼女のもとへ歩いていく。

「久しぶりね。元気にしてた?」
「ええ、おかげさまで」

シキコは美海を一瞥したが、すぐに星佑に視線を戻して「お腹がすいたわ」と言った。
「ではこのまま行きましょう」
「そうね」

間もなく星佑とシキコのふたりは社長室をあとにした。

星佑の態度が心なしか違って見えたのは気のせいか? 著名人だからだろうか。
――でもそれだけ?

美しいシキコには、特別感がある。
その特別に感じる原因はなんだろう?
ざわざわと美海の心が騒ぎ立てる。

午後になっても、星佑は彼女とランチに出かけそのままなかなか会社に戻ってこない。
――私には関係ないわ。
イライラする美海に、女性秘書が来て報告した。

「社長は、今日は戻らないそうです」
「え?」と戸惑う美海に秘書はニヤリと口元を歪める。

「朝比奈さまと社長は、『そういう』ご関係なの。時々日本に帰ってきては社長にベッタリ。仕事を餌に好き放題なのよ、ほんと大嫌い。社長はホストじゃないっていうの、可哀想に。お慰めしてあげなきゃ」

美海はその時になってようやく思い出した。
璃鈴が言っていたことを。

『女性客がいるはずなのよ。シキコっていう女が』

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