次期国王は独占欲を我慢できない
アリス、王都へ
 たんぽぽの綿毛は、風に乗ってふわふわと飛んで行く。
 北へ、南へ。
 風が吹く限り、どこまでも飛んで行く。
 川を越え、谷を渡り、高い塀さえも軽やかに飛び越える。そして、たとえ石畳の隙間でも、しっかりと根を張り、花を咲かせる。
 こんなところに、いつの間に……? 人々はその素朴で可憐な花に、思わず頬を緩ませる。
 それはまるで、ある日ひょっこり王宮に現れた、ひとりの少女に似ていた。


 * * *


 フォンタニエ男爵家で、小さな命が産まれたのは、まさに奇跡と言えよう。
 四人の子供たちは、既に自立していたし、長男に至っては跡継ぎとなる息子も産まれていた。
 貴族とはいえ、決して裕福ではなかったが、優秀な子供や元気な孫にも恵まれ、さてもう十年もしたら長男に爵位を譲り、田舎でゆっくりしようか――妊娠がわかったのは、夫妻がそんなことを話していた矢先だった。
 深い愛情で結ばれたフォンタニエ男爵夫妻とて、まさか五人目の命を授かるとは思っていなかった。
 出産するには高齢だったこともあり、仲の良い家族は、慌てて実家に集結し、家族会議がおこなわれた。そして、予定よりも少し早いが、長男のアルマンに爵位を譲り、夫妻は領地に引き上げることにしたのだった。
 とにかく母と赤ん坊の無事が大切だった。それ以外のことは、それから考えればいい。そうしてこの世に生を受けたのが、アリス・フォンタニエだった。

 アリスは自然豊かな田舎で、スクスクと元気に育った。
 大らかで滅多に怒らない父と、優しくておっとりとした母は、アリスが可愛くて仕方がない。
 これまでは貴族としての仕事も責任もあり、子育てを乳母に、教育を執事に任せきりだった。彼らの主は既にアルマンになっており、領地の屋敷にはいない。最低限の使用人と、昔馴染みの領民。そして、子育て初心者の自分たち。悪戦苦闘しながらも、毎日が刺激的で楽しいものだった。戸惑いも大きかったが、アリスの人懐っこい笑顔を見れば、皆笑顔になった。こうして、アリスは十五歳になった。

 とにかく母と赤ん坊の無事が大切。それ以外のことは、それから考えればいい――それが思ったより大きな問題として降りかかったのは、難しい顔をしたアルマンが領地にやって来た時だった。

「アリスも、来年社交界デビューの年齢になります」
「もうそんな年か」
「早いわね。あっという間だったわ」

 夫妻は感慨深げにため息を漏らす。
 末の娘を、大切に大切に、でもたくさんの可能性を考えてなるべく自由に、そしてたくさんの人の力を借りて、育ててきた。
 お互いを見やると、髪に白い物が、そして顔には皺が増えている。それだけ、年を重ねてきたということだ。社交界から一線を退いた身としては寂しいが、アリスを送り出さねばならない。

「寂しいわ……」
「寂しいなぁ」

 アリスと共に暮らした日々を想い、母のロクサーヌが目じりに浮かんだ涙を拭う。

「……しんみりしているところ、申し訳ないのですが……。実はちょっとした問題がありまして……」
「問題? なにかしら」
「――アリスが生まれる前、男爵位はわたしが継ぎました」
「ああ、そうだな。なにしろ、貴族の仕事や責任よりも、まずロクサーヌの身体と、アリスの無事が大事だったから、出産に専念させたかった」
「あなたったら、本当に優しいんだから……」

 またもや感動の涙を流すロクサーヌに、夫であるドミニクがハンカチを渡す。

「すっかり涙もろくなっちゃったわ」
「それはわたしもだよ」
「あの~、話を続けていいですか」
「ん? ああ。なんだったかな」

 最近どうも、物忘れがひどくて――そう言って笑いあう夫妻は、どこまでものんびりしている。
 アルマンは短く咳払いをすると、自分に意識を向けさせた。

「つまり、アリスは男爵令嬢ではないのです」

 アルマンの言葉から一拍置いて、夫妻は「あ」と声を上げた。

 爵位をいくつか持っている貴族もいるが、ドミニクは男爵位だけを持っていた。その爵位を、アルマンに譲り、隠居生活に入っていたのだ。
 その間に、アリスが生まれた。
 アリスは、元男爵の令嬢、というわけだ。

「こ、こういう場合はどうなるんだ?」
「わかりません。一応、調べたのですが、わが国では初めてのことだそうです」
「でも……今爵位を持っていないとしても、現にアリスはフォンタニエ家の者ですよ? れっきとした直系の令嬢です」
「ええ。おっしゃりたいことはわかります。わかりますが――わたしの言いたいことも、わかりますよね?」

 なにも、アルマンだってアリスを貴族の令嬢として扱いたくないわけではない。むしろ、誰よりもお姫様のように可愛いと思っている。だが、ふとした時にアリスが生まれた時点では、両親が爵位を手放した後だったと気づいてしまったのだ。
 勿論、必死に調べた。
 貴族院の中でも、重鎮といわれる御年八十歳の侯爵にも、話を聞きに行った。

「おお。ランドン侯爵かね。彼がまだ貴族院にいたとは……。で、彼はなんと?」
「それが、耳が遠いらしく、会話らしい会話ができませんでした」
「あらあら。議会に出るのも大変でしょうにねぇ」
「ええ……って、今は侯爵のお話はどうでもいいんです。つまり、アリスのような子は今までいなかったそうなんですよ。王立図書館の蔵書にも、記載がありませんでした」

 それは困った。
 まさか、後々になってこんな大きな問題が出てくるとは思わなかった。
 しかも、なにかやろうにも、そんな時間の余裕もない。
 日頃のんびりしている夫妻も、ようやく事の大きさが分かったようだった。

「さて、これは困ったな……」
「わたくし、オルガに色々頼んであったのよ? お茶会や夜会ではアリスをよろしくねって」

 それはアルマンも知っている。大体、その話を妻であるオルガから聞いて、アリスが男爵令嬢という立場にないことに気づいたのだ。
 アルマンとオルガの間には、二人の子供がいるが、どちらも息子だ。女の子が欲しかったオルガにとっても、アリスは娘のような存在だった。アリスが社交界デビューしたら、持っている限りの人脈を駆使して、良い縁を見つけるのだと張り切っていた。その思いはアルマンも一緒だった。いや、アルマンだけではない。他の兄弟も思いは同じだった。
 だが、どう考えてもどう調べても、両親が貴族であっても、肝心の爵位がないのだ。どうにもできない。

「い、今からどうにかならないものなのかしら? だって、れっきとした貴族の娘なのよ?」
「ええ、ええ。そうですね。わかります。前例がないというだけで、掛け合うことはできると思います。ですが――」
「そうか、では掛け合ってみよう!」
「無理です。今期の議会は既に終了しています」

 貴族院も議会が終了し、社交シーズンも終わっていた。それぞれが領地に戻ったり、外遊へ行ったりと思い思いに過ごしている。掛け合う相手も、話し合うべき場も、もう無かった。

「ひねり出した案が、これです」

 相変わらず難しい顔をしたアルマンが、一枚の紙を差し出す。そこには、こう書いてあった。

『王宮勤め 試験のご案内』

 王宮勤めとは、その言葉通り、王宮で仕事をする者たちのことだ。
 貴族の邸宅では、平民も教育を受けさえすれば仕事をすることができるが、王宮では勤め人も貴族か、それに準ずる地位の者、と決められていた。

「アリスは、この“貴族に準ずる者”に当てはまります」
「なるほど……」

 王宮勤めは、貴族や騎士、豪商が、子供たちにさせたい人気の仕事だ。
 なにしろ給与が安定している上に、雇い主が信頼できる。そして、勤めながらも夜会や茶会、舞踏会などへの出席も認められているのだ。良縁探しにも持ってこいの勤務先なのである。しかも、結婚相手によっては、結婚後も王宮勤めを続けることができる。
 ただ、それだけ人気の職場ということで、試験が難しい。
 これだけの好待遇ともなると、退職者も少ない。毎年募集人数は異なるが、合格率が全体の約二割という、狭き門なのだ。
 試験内容もかなり厳しく、男子は剣術や体術、筆記試験に面接、ダンス、語学、乗馬。これだけでも厳しく感じるのだが、女子に至っては試験内容が倍になる。筆記試験に面接、ダンスに歌。礼儀作法にお茶の淹れ方、お花の活け方、刺繍に洗濯。そして料理の盛り付けや、会話術や乗馬と、完璧超人でなくてはならない。さすがののんびり夫妻も頭を抱えた。

「歌って、なにに必要なの……」
「さあ。ところで……肝心のアリスはどこです?」
「ああ、昨晩仔馬が生まれてね。どうしても見守りたいのだと、昨日からずっと厩舎にいるよ」

 完璧なレディを目指すどころか、厩舎に寝泊まりとは……夫妻に続き、アルマンも頭を抱えた。
 だが、駄目で元々。万が一ということもある。三人は、アリスに試験を受けさせることにした。

 試験までは二ヵ月ほどしかなく、勉強に力は入れたものの、付け焼刃は否めなかった。
 だが、なんの奇跡か、それとも運命の悪戯か、アリス・フォンタニエの元に届いたのは、合格通知だったのである。
  
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