密偵をクビになったので元主のため料理人を目指します!
遠く離れても
 厨房で働き始めて一週間が経過。
 転職面談以降、私は主様と一度も会話をしていない。それどころか、正面から顔を合わせたこともない。
 姿だけなら遠くから見かけたこともあるけれど、とても声を掛けることは出来なかった。未練がましく見つめているだけで、手を伸ばすことは許されない人だから。
 新しい仕事は順調だ。初日で皮むき職人。翌日には皿洗いの達人。その翌日には掃除の女王との異名を賜った。すべて先輩であるカトラからの命名だ。
 元密偵改め、厨房勤務のサリアとして、この生活にも慣れてきただろう。
 けれどついに、その日が来てしまった。

「ルイス様、お昼に発たれるって」

「そうか、いよいよか……」

 先輩の呟きに料理長が深く頷く。
 今日は主様が城を去る日だ。
 騒ぎ立てる様な動きは無いけれど、密かに城内はその話題でもちきりだった。もちろん厨房も例外ではない。
 私はどうしたって主様の名前が話題に上れば聞き耳を立ててしまう。密偵たるもの、主人の話題には敏感でなければならないという教訓だ。いくら情報を集めても主様が喜んで下さることはないけれど、身体が反応してしまう。

「ルイス様、生まれ育ったお城を追い出されるなんてお可哀想……」

「やめとけ。新王陛下がお決めになったことだ。いくらお可哀想でも、俺たちが何を言っても現実は変わらない」

「そうですけど! でも、やっぱり可哀想ですよ!」

 先輩……!

「……そうだな」

 料理長……!

 この二人は良い人間。無心になって皮むきをこなしながら、私はとても個人的な理由で判断を下していた。
 どうせ私は見送りには行けない。ここで働いて、立派な料理人になることが主様に会える一番の近道だ。そう自分に言い聞かせて働いた。

「新入り、おい新入り!」

「え――」

 考えこんでいるうちに大声で呼ばれていたらしい。これがかつての仕事中であれば命とりだと気を引き締めた。
< 51 / 108 >

この作品をシェア

pagetop