俺の手には負えない

3


「あ」

 香月は道端で、思わず声を出した。

「あ、ああ」

 相手は、驚いて目をぱちくりさせている。

「こんばんわー、こんな所で会うなんて」

 香月が午後11時の退社した後、スーパーで材料を買い、駐車場に戻ろうとした時だった。偶然、路地から出て来たあのカフェのバイト、郁人(いくと)に真正面から会ったのである。

 帽子をかぶっていたが、一瞬車のライトでよく顔が見えたおかげで、確信を持って話しかけた。相手も返してくれる。

「こんな遅くに買い物ですか」

「ええ、今日11時まで出社だったので。でも、最近料理にはまってて」

 この人こそ料理がうまいんだろうなと思ったが、レシピを教えてもらうとか、そんな距離感ではない。

「そうですか、じゃあ……」

 郁人は随分素っ気ない。まあ、店じゃなかったらそういうものなのかもしれない。

 香月は、仕方なく前を向いて歩き始める。


 ♦
  香月との会話をやり過ごした後、背後で嫌な気配を感じ取った公安外事一課の遊佐 戒人(ゆさ かいと)は、その瞬間素早く振り返った。

「!!!」

 今話しかけてきたばかりの香月が一瞬で路地裏に消えたのを、しっかりと目で捕える。

 慌てて、路地裏に駆け込む。

 そこには、スーパーのビニール袋から落ちた食材が散乱しており、奥の方に走って行く2人の男と引きずられる女が見えた。

 任務中ではなかったため、イヤホンなどはつけておらず、とりあえず携帯電話で応援を頼む。

「ヤツらが動いた。2番街マルイスーパー裏南方面へ男2人、女を取って逃走中」

『了解』

 遊佐は全速力で男を追いながら、香月を連れ去った男の目的を考えていた。

 香港マフィアのボス、セイ・リュウが敵対する巽の女、香月を手中に収めようと日本まで来たのが数年前。結局香月がそっぽを向いたことで、何事もなく収束し、この数年は全く連絡を取っていなかったようだが、一か月前、香月の周辺をかぎまわっている手下がいるとの情報が入った。

 その後すぐに香月の家は空き巣に入られている。

 本人の話では、取られた物は分からないらしいが、現場を見た感じではプロの外国人の犯行だと思われた。

 今連れ去られたところを見ると、何か、探しているのは確実だ。

 今更、香月に何を……。

 本人の様子からすると、全く気付いていないようだったらしいが、巽と数年共にいた女だ。どんな裏があるのか分かりはしない。

 遊佐は充分気を付けながらも廃ビルに入る。
 
 中では、1人は中国語、1人は片言で何か問いただしているようだが、肝心の香月の声は聞こえない。

 震えあがっているのか、はたまた……反撃する機会を狙っているのか……。

 落ち着いて、その場まで近づく。

 影から見ると、1人の男が馬乗りになり、香月の胸倉を掴んでいた。

「キーケースをどこへやった!」

 キーケース? はじめて聞くワードに、眉間に皴を寄せる。

「BMについていたキーケースだ!」

 話はおおよそ分かる。おそらく、リュウが、香月に送ったBMWの車にそのキーケースをつけていたのだろう。だがその車は、香月がリュウにそっぽを向いた時点で自ら処分している。今更キーケースだけ残っている方が難しい。

「…………、………」

 ここからは、香月の表情までは分からないが、何も返答しない。

「痛い目に遭いたくなければ言え!」

 あまりぐずぐずはしていられないかと思いながらも、奥をよく覗く。

「……きっ、き、きーけーすなんて……」

 恐怖で怯え、身体が震えている。どこでその裏を出すつもりだと、もう少しだけ待つ判断を下す。

「キーケースについていたカードはどうした!?」

 本題はそれか……。

「、全然っ……ぜ、し、知りません!」

「クソがっ!!」

 男が胸倉から手を離したせいで、頭が床にたたきつけられた。

『おい、どうする?』

 中国語が静かにその場に響いた。

『………、だいぶ前の事だしな。本当に知らないのかもしれないし、存在すら怪しいと俺は思う』

『今更かよ! 部屋にはなかったんだろう!?』

『よくは探したさ! あの情報がデマかどうかも今となっては……』

 遊佐は目をつけてあった鉄パイプを握り締め、ゆっくりと近づいていく。

『どうするんだよ』

『……このまま逃がすわけにはいかんだろう』

 素早く頭上から鉄パイプを振りかざした。二度。

 それが、思い切り命中し、あっという間に2人は倒れる。

 殺しの方はプロではない事は明白だった。

 応援もそろそろ来る。

 床にうずくまり、震える香月に声をかけた。

「もう大丈夫」

 背中をさすって、身体を起こしてやる。

「え……あ……」

 香月は俺の顔を確認するなり、身体を摺り寄せて来た。

 まだ身体の震えはおさまっていない。

「大丈夫………」

 長い髪の毛が指先に絡まってくる。

「……」

 プライベートな邪念を一切排除する。今は仕事中だ。もうじき仲間も来る。

「もうすぐ警察が来ますよ」

 途端、彼女が顔を上げた。

「警察なんか困ります!!」

 遊佐は急速に無表情に戻し、

「何故、警察が困るんです?」

「みんなに…迷惑がかかるし……」

 その、への字にした唇からは何も読み取れない。

「分かりました」

 遊佐はそれだけ言うと、その小さな白い手を取って足を前に踏み出した。


≪登場人物≫

露木 郁人(つゆき いくと)  公安外事一課 本名 遊佐 戒人(ゆさ かいと)



「………」

 近くのビジネスホテルのシングルを取り、香月と共にいることを内密に公安の捜査員に伝える。

 部屋に入ってからも、香月は難しい顔をして、靴を履いたまま立ち止まっていた。

「……」

 遊佐は1人シングルベッドの脇に腰かけ、その様を見据えた。

 男達と揉みあったせいで制服らしいジャケットはどろどろになったので、それを脱いで白いブラウスとタイトスカート姿になってはいるが、よく見ると、紺色のスカートやストッキングの足は所々泥がついている。

 膨らんだ胸元と長いひざ下に着いたどろを拭ってやりたい気持ちも出たが、さすがにそれは不自然だろうと理性で堪えた。

 とにかく、怪我をしている様子はない。

「警察が困るとは、何故です?」

 慎重に聞いていく。

「……全然身に覚えがないことで……警察沙汰になると、まるで私が悪いみたいになって……。会社で居づらくなるんです」

 まあ、自然な返し方だ。

「すみません、僕は少し犯人らしき男の会話が聞こえたんですが」

 香月の顔に変わりはない。

「キーケースがどうのと言っていたのは、身に覚えがないということですか?」

「………。それは……あまり」
 俺のことをただのカフェの店員だと思っているうちは明かさないか……。

「犯人は捕まると思います。警察も来ていたようだし」

 話を逸らす。

「……」

「これからどうします?」

 香月は、鼻で息を吐いた。

「……あ、スマホ……あぁ、良かった」

 ポケットに入れていたものがちゃんと機能しているらしい。

「………」

 明星と深い仲にありつつある、というのも調査済みだ。ここで電話をかける気か。

「どうしよう………」

 彼女は明星が公安だということをまだ知らないようだ。

「……このまま警察が捜査すれば、あなたのことがいづれ浮上します」

 香月は、じっとこちらを見つめた。

「あの現場にいたのは、男2人と僕とあなた」

「……」

「男2人がまともに供述するかどうかは分かりませんが、よければ僕が身代わりになってもいい」

「ええ!?」

 香月は目を大きく開いた。だが、手放しで喜んでいるようではない。

「身代わりって言ったって……」

「僕が警察に一部始終を話します。適当に、アジア系の女の人を取り囲んでいたから助けた、と」

「………でもそれってバレた時に……」

「嘘じゃない。あなただって僕だってアジア系だ。その女性は男がひるんだ隙に逃げた、と。僕が逃げるように指示したと言います。通り魔による犯行…そういう風に持っていければいいかと」

「………でも」

 そう言いながらも香月はだいぶ落ち着いた表情を見せた。

「僕もヘタな嘘はつきません。事件に巻き込まれた後に、どうしても恋人が駄々をこねたから、会いに行って、それから事情聴取を受けてもなんら問題ない。一般市民なんですから、事件を最優先しなければならないなんて、そんなことないでしょう?」

 香月はふっと息を吐いた。

 遊佐も同じように息を吐く。

「それじゃあ行って来ます」

 遊佐は立ち上がって、真剣な表情を見せた。

 香月も、頷いてくれる。

「えっと、私はどうすれば……」

「そうですね…。1時間もすれば帰って来られるでしょう。長引きそうなら適当に理由をつけて切り上げてきます。それまで、ここにいた方がいい。まだ警察も現場をうろうろしているでしょうから」

「あ、はい」

「車はスーパーの駐車場?」

「あ、はい。でも、あそこは24時間営業なので、大丈夫です」

 遊佐は頷き、そのまま無言で部屋を出た。


 勇気あるカフェのバイト君……ということなのだろうか。正義感が強い性格なのかもしれない。

 香月は簡単に、郁人がただのお人よしだと理解して、深く考えずにベッドに腰かけた。

 溜息が出る。明日も出社だ。だが昼からの勤務なので仕事はどうにかなるだろう。

 今回のことは、郁人がどうにかしてくれると信じたい。

 とにかく、彼が部屋に帰ってきたら、お礼を言って、警察が引いたところで自宅に帰り、仮眠をして仕事へ行くだけだ。

 警察……。

 幾度となく警察に出くわしているが、今回の空き巣と廃ビルはどうやら繋がっていたことが分かった気がした。

 廃ビルで聞いたキーケース……。

 あれを空き巣が探していたのだとしたら、引っ越ししても同じことになる。

 そう考えると、素直に警察に保護してもらった方がいいのか、考えがぐるぐる回る。

 トントン。

 ドアをノックする音が聞こえる。

 郁人が出てから45分が経過していた。レンズで覗くと、彼が1人、こちらを見ている。

 すぐに扉を開いた。

「……何も変化はなかったですか?」 

「はい……」

 変化……。変な言い方をする。

「警察には簡単に事情を話してきました。相手が片言の中国語で、もう1人は中国語しか喋れないようでしたからまだ時間がかかりそうだと言っていました。なので、僕はとりあえず、アジア系の女性を逃がしたと、胸を張って言いました」

 にかっと笑ってくれて、一気に気が抜ける。

「ところで」

 彼はベッドに腰かけるように促してきた。

 仕方なく、香月も腰かける。

 正義感が強いせいか、主導権を取りたがる感じがあまり好きではない。だけど、色々協力してもらっているし、こちらが助けてもらっている身なのだから仕方ない。

「中国人によると、キーケースの中のマイクロSDカードを探しているようです」

 その瞬間、完全に思い出した。

 そうだ……。BMをもらった時、龍のような紋章がついたキーケースにキーをつけてくれていた。

 車を処分した時にキーも処分したが、キーケースは一応持っていた。その、キーケースを入れていたバックの底にカードが入っていて、以前自分が使っていたものだろうとは思ったが、一応中身を確認した。

 その中身は確か、英語と数字の羅列で、カードをそのままバックに入れていたため中身が飛んでバグったんだと思って……。

 そのカード……。

 その、

「どうしました?」

 郁人の鋭い眼光に身体が固まった。

 この人……。

「……」

 この人もきっと、カードを狙っている。

 咄嗟にそう感じた香月は、唾をのみこむ。

「何か、思い当たる節でも」

 どう考えたっておかしい。

 この人もカードを盗みに来ているんだ。

 だとしたら……。どうしよう。素直に渡した方が身の為なんだろうか、それとも…

「あそうだ。まだ名前を聞いていなかったな」

 急に距離を縮めてこようとされて、背を引いた。

「………」

 名前を言うべきかどうか、迷う。

「どうしました?」

 郁人はどんどん詰め寄ってくる。

 どうもしていないのに、強い視線を変えず、睨むように見つめてくる。

「………」

「名前は」

 逃げられないと悟った香月は、

「香月です」

 それだけ答えた。

「香月さん…。カードを持っていますね?」

 心臓が痛いくらいに鳴った。

「何も、悪いことじゃない。それは今どこに?」 

 勝手に確信をついてこられた事が怖くて、

「持っていません」

 口からそう出てしまう。

 ふと、自分の手を見ると、震えていたので、慌てて両手を擦り合わせて隠した。

「本当に?」

「………、さ、探します」

 そう、あれがまだバックの中にあるかどうかは分からない。

 バックは確かクローゼットの中にあるはずだが、何かの拍子でバックから落ちたかもしれないし、どこかに片付けたかもしれない。でも、先日の空き巣が盗んでいないのだとしたら、家にある可能性が高い。

「……そうですか。見つかったら警察に持って行った方がいい。僕が一旦預かりますよ」

 預けた瞬間、殺されるのかもしれない。

 それくらい、郁人の顔は怖かった。

 ただのカフェの店員ではない。

 早く、ここから脱出したい。

「じゃあ、帰って探します」

 とりあえず、立ち上がる。一刻もここから立ち去りたい。良い口実が見つかった。

「送りますよ」

 郁人は簡単に良い人面をしてくる。

「外はまだ警察がうろうろしている」




 素直に警察に事情を話さなかったせいでこんなとこに……。

 なんとかマンションのエントランスに郁人を待たせることに成功した香月は、震える手でバックを探し出し、本当にカードを持っていたことに驚愕した。

 この中にデータが……命を狙われるほどのデータということは、碌なものではない。

 本当はいっそこのまま見つかりませんでした、の方がいいのかもしれない。

 しかしそれでも香月は考えがまとまらず、たまらず友利に電話をかけた。

「………」

 出ない。いつも、メールをしてから電話をするようにしている。そのまま電話をかけたことはないし、今は深夜2時。時間的に寝ているかもしれないし、仕事かもしれない。

「……」

 どうしよう……時間がない。

 と、外からドアをノックする音が聞こえた。

「香月さん! どうでしたか?」

 エントランスから部屋の前まで上がって来たことに、身体が跳ね上がるほど驚いた。

 持っているのもきっと危険だ……。

 香月は観念して、ドアを開けた。

「……!!」

 素早く郁人がドアの隙間から玄関に入り込んで来る。オートロックのため、勝手に鍵はかかる。

 香月は

「え!」

と声を上げそうになったが、

「シッ」

と、手で口を塞がれる。

 怖くて慌てて一歩引いたが、郁人も同時に距離を詰め寄り、更に口を塞ぐ手に力を込めてくる。

「誰かいる」

 慌てて、郁人の服を掴んだ。

 もはや、郁人が犯人でも、他の犯人よりはまだマシだ。

「ここにいるのは危ない。ベランダから逃げよう」

 嘘でしょ!?

 それなら1人で逃げてほしい! 私は警察に……。

「わっ、わた……」

 突然窓ガラスに亀裂が入った音が響いた。

「何!!」

「逃げるぞ!」

 無理!!!

 そう叫んだつもりだが、二の腕を引きちぎれるほど強く郁人に引かれ、足がもつれた。

 もう、わけが分からない。

 玄関から階段を降り、車の後部座席に押し込まれ、

「頭を下げてろ!」

 すごいブレーキ音を鳴らして駐車場から出て行く。



 何がどうなったのか全く分からなかったが、ただ、車酔いしたことだけは確かだった。

「……とりあえず大丈夫だ」

 どこで停車したのか全く分からないが、とりあえず後部座席に横たわることにする。気分が悪い。

「車酔いしたのか…」

 郁人は車から降りていく。今の雰囲気では水でも持って来てくれそうだ。

「水」

 ドアを開けながら、ボトルの水を差しだしてくれる。

「……」

 香月は横になったままそれを受けとり、頬の横に置いた。今は起き上がる方がしんどい。吐きそうだ。

「………カードはあったのかい?」

 口調は半分は優しい。だが残りの半分は、嘘をつかせないという力が籠っていた。

「……ありました」

 香月はカードケースごと、ポケットから出し、郁人に手渡した。

「中は見た?」

「……見ました。随分前に」

「何が書かれてあった?」

 聞くくらいなら、何かで読み取ればいいのに。

「英語と数字の羅列で。……それ、私のだと思ったから。以前撮った写真がバグってエラーをおこしてるんだと思って……。そのままバックに入れたままでした」

「これは、香港マフィアの売人から薬を購入していた政治家のリストだ」

「ほん………」

 なんでそんな物を……。

 リュウの顔が浮かんだ。

「何故そのキーケースに隠していたのかはわからん。何か、リュウから聞いていなかったか?」

 郁人の口調が随分厳しくなった。

 怖くなって、無理に身体を起こす。

「何故俺がリュウを知っているのか、不思議そうだな」

 もはや、そんな事より郁人が敵か味方か、何者なのかの方が不思議だった。

 香月はただ固まって郁人を見つめた。

「俺は公安だ。知っていることがあるのなら早く吐いた方が身の為だ」


 

 香月は咄嗟に嘘だと思った。

 警察のフリをしている、もっと酷い犯人だ。

「……しっ、……知っていることは全部…、言いました」

「気付いたら勝手にカードが入っていたと?」

「そうです! だから、空き巣が入ってなくなった物がないかって警察に聞かれた時も、何もないって言いました!」

「…巽がこのカードをバックに入れた可能性は?」

 それは一体どういう……。

「それは……」

「よく思い出してほしい。大事な事だ」

 そんなこと言われたって……。

「このカードを狙っているやつがいるということは、いづれ狙われる流れだったということだ。仕組んだのは、リュウか、巽か」

 巽は絶対にそんなことはしない。かといって、リュウがどうだったかもわからない。

「……全然そんなの……分かりません。でも、あのキーケースは最初車をもらった時に一緒にディーラーさんが持って来てくれたものです」

「なるほど」

 郁人はすんなり引いた。何か引っかかる点が出来たようだ。まあ、こちらに疑いがかからなければ、後はなんでもいい。

「とにかく、私は無実です!」

 有罪かどうかを聞かれている感じがしたので、強く言い切った。

「リュウとの接触は?」

「もうありません。数年前が最後です」

「………」

 郁人はじっと見つめたが、逆に見つめ返すと納得したように、顔を引いた。

「………」

 最悪だ。朝日が出て来た。

「………どこなんですか、ここ」

「西の埠頭だ」

「ふとう……」

 ようやくペットボトルの蓋を捻り、一口飲む。

「家には戻らない方がいい」

 かもしれない。

 ようやく、郁人が警察官らしく見えてくる。

 最初に助けてくれた事、警察から逃がしてくれた事。あれも実は逃がしていただけではなく、逆にホテルに監禁して取り調べをしていたのだろう。カフェのバイトは知り合いのほんとのバイトで仕事が休みの時だけ手伝っているのかもしれない。それなら、バイトと店長の関係も納得する。

 郁人は運転席に座ると、空調を調節した。

「あの、私…狙われてるのなら、警察に保護してほしいんですけど」

「……カードが警察に渡ったことが分かれば狙われることはないだろうが。しばらくは警護をつける」

 なら大丈夫か……。

「じゃあ、私、帰って着替えて仕事に行きたいんです!」

 ルームミラーをしっかり見つめて見て言い切ったが、逆に振り向いて釘を刺される。

「そっちの意見ばかりが通るわけじゃない。あんたは、明星をも嵌めようとしているのかもしれないしな」

「………あけ、ぼし?」

 香月は思い切り眉間に皴を寄せた。

「何と名乗っているのかは知らないが、ハイツ203号室」

 友利の住所に身体が固まった。

「あれも同じ、公安だ」



 ♦
 瞬時に全ての事がどうでもよくなって、香月は郁人が運転する後ろでただ、窓に頬をつけて外を眺めていた。

 最初からそうだった。なんだか、雰囲気が違っていた。

 公安警察官というものがどうかは知らないが、警察官だと聞けば、ライターよりは納得した。

 どうしてそんな嘘を……でも、公安警察というものは、スパイとかそういうことをするために、身分を隠して警察の捜査をすると聞いたことがあるし…本名を名乗れなかったに違いない。

 まだ、知り合って日も浅い。

 そのうち、言ってくれるかもしれないし…言わないかもしれない……。

 30分ほど走って、元のマンションに着く。と、既に警察が現場検証をしていて、どうも着替えどころではなさそうだった。

「お疲れ様です」

 郁人は腕章や手帳がなくても、顔が利くのか、現場の中に堂々と入っていく。辺りはすぐに数人の部下が集まって来ていて、年功序列の世界ではないことが伺えた。

 すぐに部下は散っていく。

「……いつ、警察が引くんですか?」

 まだ時間はあるが、警察が引くまで待っていると出勤時間になる。シャワーを浴びて、色々するくらいの時間は欲しい。

「取りたい物があれば、取ればいい。その後は警護をつける」

「……それ、分からないようにしてくれるんですよね。会社とか…」

「警護とは本来そういうものだ」

 知らないよ、そんなの…。

 郁人は随分上から物を言う。何歳かは分からないが、年はこちらよりは若そうに見えるのに。公安警察というやつは警察の中でもエリートだと聞いたことを思い出した。上から目線が癖なのかもしれない。

「……終わったら、窓ガラスは自分で直すんですか?」

「もう襲撃する意味はないと思うが、引っ越ししたか方がいいとは思う」

「えっ!?」

 香月は顔を見上げた。

「えだって、引っ越ししたばっか……」

 そりゃあそうだ。1人でいた時に狙われるくらいだったら、引っ越しするべきだと思う。だけど、引っ越ししたって、引っ越ししたって同じではないか。

「まあ、外からの襲撃の犯人もこちらで押さえた上、カードも手元にある。これで終わりだとは思うがな」

「……とりあえず、ホテルに行った方がいいでしょうか?」

「俺ならそうする」

 あんたなら警察で泊まれるでしょ!

 とりあえず、スーツケースに身近な物を詰めていく。けどそれでは足りなくて、ボストンバック2個にも入れた。

 溜息が出る。

 リュウや巽に一言言えばどうにかなるのではないかという、考えが段々大きくなってきた。

「あの、思ったんですけど」

 突っ立っている郁人に話しかけたが、電話中だったため、ちらと睨まれる。

 仕方なく、それが終わってから、

「あの、考えたんですけど」

 文章を整理して、

「これって、誰がどうしてこんな風に襲撃してるんですか?」

「現在調査中だ」

 そんな事がききたいんじゃなくてぇ。

「あの、リュウさんか、巽さんに聞けば、分かるんじゃないですか?」

「誰が」

 威嚇するように、睨んでくる。

「え、えっと、私?」

 香月は、それを期待されていると思い、半笑いで答えたが、

「………、現段階ではそれは考えていない」

「えっ、ひょっとしたら、やる時がくるかもって事ですか!?」

 自ら言いだしたはずの香月は大声で、驚いた。

「じゃあ、どう推理している? 逆に聞かせてくれ。リュウや巽が関係していると思った根拠は?」

「えっと…カードはそもそも、キーケースに入っていたとしたら、リュウさんが入れた可能性もあるし、だったとしたら、巽さんが何か知っているかもしれないし」

「そんな程度で首を突っ込んで来るな。あんたは一般人なんだ。そういう輩との付き合いはもうよしといた方がいい」

 って、言いながら、切り札がなくなった時は私を使おうとしてるくせにー!!

「荷物をまとめたらビジネスホテルまでは、あの2人が送る。車は後から持って行かせる」




♦ホテル暮らしの3日後は、本当に引っ越しをした。
 
 場所をどこにするか悩んだが、勤務地から20分、友利の自宅から20分の場所を選んだ。

 あれから、友利に1日1回は電話をかけているがつながらない。

 多分、どこかで捜査の仕事でもしているんだろう。

 今度会ったらどうしようか。

 郁人から聞いた事を話そうか。でも、話したら今回警察に巻き込まれた話もしないといけなくなって、昔の巽の話もしないといけない。

 それに、ひょっとして、自分が公安警察だとバレたら身を隠さないといけないとか、そういう可能性もなきにしもあらずだし…でも、知らないふりがどこまでできるのか、分からないし……。

「……」

 電話はかけても出ない。

「……」

 家にはいないと思う。

「……」

 行ってみようか……。

 でも、ストーカーみたいかな……でも、引っ越しして、新しい街をうろついてたら偶然ー、偶然20分先の町に?

 いやでも、電話に出ないのに、家に行くってやっぱ、常識的におかしいか……まだそんな仲じゃないし……いや、そんな仲?

 考えていると、突然携帯電話が鳴った。

 嘘みたいなタイミングで、友利、の文字が出ている。

 でも、本当は……明星……。

「もしもし…」

『悪かった。取材で突然渡米することになってな』

 イキナリの嘘に、言葉がついていかない。

「……」

『もしもし?』

「あ、うん。えっと、うん」

『仕事中だったか?』

「いやうんえっと、買い物中で!」

 思いっきり家の中だ。

「また後でかける!」

 と言ったものの、これで繋がらなくなっても困る。

「…今どこ?」

『家に戻ったところだ。これからシャワーを浴びる』

 本当に奥からシャワーの音が聞こえた。

「家に行く。今から、家に行くから」




 ハイツ203号室に着いて、インターフォンを押す。以前、何かのタイミングでそこからバスローブを羽織った巽が出て来た事が頭を掠めたが、

「すまなかった、急な仕事で」

と、普通に友利が出た事で、今までの記憶が一変に上書きされた。

「全然……」

 まだ髪の毛が濡れている。

 抱き着こうと思って、近寄ったが、

「今帰ったばかりで…」

と、友利は気付かず廊下にむかった。今日はジーパンにティシャツだ。

 疲れているのかもしれない。

「……」

 今帰ったって、本当はどこから……。

 リビングを見る。でも、確かにどこかから帰ったことは事実らしく、大きなリュックが部屋の隅に置いてある。デスクの上の閉じたノートパソコンの上も、携帯の充電器やらミニ懐中電灯があり、今帰って来たことだけは間違いないようだ。

「……」

 友利はソファに座った。

 香月は、じっとその姿を後ろから見つめる。

「アメリカの大物との取材の契約が急に取れたと会社から連絡があってね。
 といっても、何か疑っているようだな」

 急に友利は後ろを振り返った。

「……」

 図星に、声が出ない。

 目が合っている。

 言うべきか、言わざるべきか。

 ブー、ブー、ブー、

 どこからか、携帯電話のバイブ音が聞こえた。

 友利は、ふと目を逸らすと、廊下に出てドアを閉める。

 電話だ。絶対会社からとか言うんだ。

「すまない。昨日のデータを会社に送れと上司から連絡があってね」

 友利はただ、こちらの目を見つめたままで言う。

「悪いが、今日はここまでにしよう。また後日、連絡をする」

「……」

 香月は、黙って頷いた。

 玄関までちゃんと送ってくれる。

「今日は休みだった?」

 そうに決まっている。

「ええ」

 香月は靴を履いて、外に出た。



 会社からの連絡というのは本当だったんだろうか…。

 香月は、3日前の友利が妙に今までとは違っていた気がしてならなかった。

 疲れているだけかもしれない、だけど……。

 この3日間、予想通り連絡はない。

 どんな予想も、立てたくはないけれど……。

 あれから、郁人からの連絡もない。

 刑事が警護という名の尾行についているのかどうかも自分ではよく分からない。

 ついてくれるとしたらいつまでなんだろう。

 ある日突然いなくなっていたら、そこで狙われるんだろうか。

 口封じに……。

 いや、あのデータが警察に渡ったのなら……もう、事件は解決したはずだ。


 ♦

「ところで」

 とりあえず、「はい」と返事をした宮下は、目の前で腰かけている九条参与の次の言葉を既に予想し、先に頭を回転させておいた。

「店に問題がないということは、香月愛にも特に問題がないということで大丈夫だな?」

 内容は大方予想通りだが、言い方と、その表情に嫌味が籠っている気がして、じっと、見返した。

「……、出勤、売上、業務にはなんら支障をきたしておりません」

「プライベートは?」

「ここ最近は…見かける程度で特に話しかけたりはしていません」

「ということは、引っ越ししたことも知らないんだな」

「……」

 宮下は、首を傾げた。

「10日か…その前くらいに引っ越し届は提出していましたが、それは見ました」

「違う。一週間前に、西前区に引っ越している」

「えっ!?」

 その短期間での引っ越しに、さすがに驚いて九条を見た。

「いや、全然……」

 慌てて、立ち上がり、店長未確認ボックスのカゴを漁る。いや、そんな書類は提出されていない。

「書類はまだありません」

 宮下は真剣に九条を見つめた。

「香月をすぐに呼んでくれ」

 良い予感はしなかったが、居住地が変わっているのなら、書類を提出してもらわないといけない。それは、規律違反だ。

 すぐにインカムのマイクに

「香月、空いたら店長室まで」

と飛ばす。

「……香月はすぐ来ます……」

 宮下はイヤホンから聞こえた声を九条に説明する。

 そして腕時計を確認して、

「もう上がりの時間です」

「……、何を言いだすのか、予想もつかんな」

 九条は手にしていた売上表の資料をパン、と机に置いた。

 規律違反かどうかも怪しいただの問いに、何を期待しているのかと、見えない位置からさすがに睨んだ。世話役であろうとも、香月個人の世話役ではない。

「失礼しま…す」

 九条を見て驚いた香月は、少し語尾を乱したが、そのまま机の横に立てった。

「……」

 九条はそれらしく、腕を組んで黙るので、仕方なく俺が、

「……引っ越ししたらしいが、届はどうなっている?」

と、なるべく普通に聞いた。

「あ、書いてあるんです! 取ってきましょうか?」

 なんだ、そんなことだったのか、と香月は言いたげだ。

「何故引っ越しをした」

 九条はようやく口を開いたが、香月はひるまず、

「住む場所を変えたくなっただけです」

 堂々と言い切る。それで正解だ。

「私に何の相談もなくか」

 そういう言い方は…

「はい。プライベートなことですので」

「……前回の、警察沙汰になったことから引っ越ししたのに、再び引っ越しをしたのはどういういきさつからだと聞いている!」

 九条は大袈裟にイラついてみせた。だがそれは、逆効果だ。

「じゃあどういう相談をすれば良かったんですか!? 引っ越したい気分になったから引っ越ししたいんですけど、いいですかって、そんな事、一々聞かないといけないんですか!? だとしたら、その理由を教えて下さい。例え、附和社長のことがあっても、それは仕事上のことです。どこで私が住もうと構わないはずです」

「…何かあった時にわけが分かるように、住む場所を世話役が知っておくことは当然だ」

 九条も負けじと言い返したが、それは、やはり、

「知りません、そんなの」。

 俺は、溜息を押さえて、

「香月、後で引っ越し届を出すように。それで構いませんよね?」

 とようやく2人の間に割って入った。九条も言うだけ言って、気が済んだとは思う。

「……」

 だが、何も言い返してはこない。



「香月、九条参与は香月のことを心配している。それだけだよ。警察沙汰となれば俺も心配だ。でも、身の周りのことを心配してくれる人がいる。それはそれで大事なことだ。特に香月は無茶をする時があるから」

「心配してくれる人なら、います」

 その凛々しい顔を見た瞬間、男が出来て引っ越しししたのだと納得した。

「私のプライベートなことを心配ししてくれる人ならいます」

 ああ、その美しい顔を独り占めしている男がいると知った瞬間、嫉妬心が渦巻く。

「届を取ってきます」

 その男と住むための家……いや、俺にはもう家庭がある。嫉妬心など、あるはずがない。

 とりあえず出て行った香月を見ても、九条は黙っている。

「新しい男が出来ても、附和社長は俺に世話役を押し付けてくるだろうか」

 九条は細々と言ったが、内心、ぐさりときていることは確かそうだった。

 宮下は新しい男が店内にいないか頭を巡らせてみる。

 だが、思い浮かばず、社外だなと予感した。
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