はじまりの日、ガラスのような瑠璃色の花がテーブルの上で咲いていた。

 花に見とれるほど子どもじゃないとちょっと意地になりながら、相原麻衣子(あいはらまいこ)は席についてからずっとそれを見ていた。

 麻衣子は今日からここ、新城(あらき)商事と専属のコーディネーター契約を決めて、現地を飛び回る仕事につく。

 食品輸入を扱う新城商事は、四月一日に新商品のビュッフェ会兼新入社員歓迎会が開かれる。麻衣子は固くなりながら新入社員歓迎パーティに出席した。
 
 麻衣子は現地に在住するから、これから本社の同期と会うことはめったになくなる。寂しい気持ちは少しあった。けれどそういう仕事を選んだのだから、あまり親しい友達を作るつもりもなかった。

 でもふいに目を引かれたテーブルの上の花のように、隣の席に麻衣子の意識を先ほどから占めている人がいた。

反田(はんだ)だ。よろしく」

 その隣の席から声がかかって、麻衣子は内心驚いた。

 彼も新入社員の席に座ってはいるが、明らかに異質だった。

 日本人離れした長身に、すこぶる悪い目つき。高卒の麻衣子より五歳ほど年上だろう。顔立ちが峻厳で、その体格と目つきのせいで余計威圧感を放つ。

 でも身にまとう力強さに吸引力があってついみつめてしまって、ずっとそれでは変だと焦っていた。

 簡単なあいさつだったのに、麻衣子が返事をするのはたっぷり三十秒ほどかかってしまった。

「相原です」

 不愛想に苗字だけ言い捨てたら、彼は怒ったような目で麻衣子を見た。

 彼にとっての麻衣子の初印象は良くなかっただろう。

 麻衣子は男性のようにきつくタイを締めて、全身を冷たい色が包む。よく言えばスリムだが、悪く言えば貧弱な体つきだ。ほとんど笑わなくて、堅物の雰囲気がにじみ出る。

 それでいて結構頻繁に弱気になる性格なのは、内緒だった。

 彼は何も言わない。話しづらい雰囲気が漂って、麻衣子も言葉を続けられなかった。

 私、どうしてこうなんだろう。周りの新入社員の女の子たちは呼吸をするように打ち解けていくのに、人と壁を作る癖が災いする。

 麻衣子は自己嫌悪を感じながら、またテーブルの上の花を見る。

 光る瑠璃色の花は昼下がりのテーブルで、異国から来た王子様みたいに輝いて見えた。

「その花」

 麻衣子が思わず振り向いたのは、彼がもう一度声をかけてくれるとは思わなかったからだ。

 彼が言葉を止めたのは待っているようにも思えたが、麻衣子がそちらを見るとぷいと目を背けた。

「レイリスという国の名前がついてるんだ」

 麻衣子が何か言う前に、彼は席を立っていた。

 やっぱり私が不愛想に答え過ぎたのだと後を追えずにいたら、麻衣子に声をかけてきた人がいた。

「相原さんが入社試験で初レクをしていたアンズ、輸入が始まったよ」

 その頃、麻衣子には淡く憧れている人がいた。

 それが初老の新城社長だった。紳士的で、名札をしていなくても新入社員の名前を全員呼んでくれる。あまり目立たない麻衣子もちゃんと見ていてくれたらしい。

「私のレクを覚えていてくださったんですか」
「もちろん。ファンになっちゃったよ」

 お茶目に笑う社長に、麻衣子は顔を赤くしながらうつむいた。

 打ち解けない麻衣子を気にしてくれている。社交辞令だろうとうれしかった。

「相原さんも食べる? あ」

 ふいに社長が缶を開けようとして、少し指を切ってしまった。

 麻衣子はすぐに、鞄に入れていた傷テープを思い出した。

「大変! どうぞ、社長」

 けどすぐに新入社員の女の子たちが集まって来た。気の利く子はそういうものを持っていて、麻衣子の傷テープなどに出番はなかった。

 あんな地味で古い傷テープ、見せなくてよかった。社長だって明るくてかわいい子に巻いてもらった方がうれしい。

 淡い憧れさえ苦い思いにしてしまうのが情けない。麻衣子は席を立って、ポーチを持って化粧室に向かおうとしていた。

「反田君も指切っちゃったの?」

 あの会話らしいことをしなかった同期に、先輩の女性が声をかけた。

「巻いてあげるよ。指出して」

 先輩の声は弾んでいた。気の弱い子では怯んでしまう威圧感も、余裕を持った女性なら怖くはない。

 麻衣子がつい立ち止まっていたら、なぜか彼もこちらをじっと見ていた。

「いいです。俺、べたべたしたの嫌いなんで」

 彼はそこにいろというように麻衣子をにらんで、さっと室内に向かった。

 テラスに戻って来ると、まっすぐ麻衣子の方にやってくる。

 どうして私のところに? 麻衣子は心臓が変な音を立てているのを聞いていた。

「傷テープ、持ってるだろ。一枚くれるか」

 ポーチからのぞいていたのを見られたのだ。気まずい思いと、でもどうしてとまだ理由がわからないまま、そっけなく答える。

「ボロいテープよ」
「いい」

 もしかして気を遣ってくれたのだろうか。社長とは違う形の気遣い方をする人なんだと思った。

 麻衣子が傷テープを渡すと、彼は自分で傷テープを巻く。でも横目で見ていると、片手だからあまりうまくいっていない。

「貸して」

 麻衣子は気が付けば手を出して、彼の指にテープを巻いていた。

 近くなる距離に彼も息を詰めている気配がして、麻衣子はなんだか落ち着かなかった。

 テープを巻き終わると、麻衣子は離れて言った。

「ごめん。余計なことして」

 また彼はにらむように麻衣子を見て、別にとぼやいた。

 この人なんでこんなに私をにらむんだろう。そんなに気に障ることをしている気はないのだけど。

 会話なんて続くとは思っていなかったのに、意外にも口を開いたのは彼の方だった。

「レイリスが俺の初レクの商品だったんだ。入社試験、自信あったか?」

 麻衣子は苦笑いして答える。

「全然」
「俺は全然なかった」

 声が重なって、麻衣子は顔を上げる。

「あなたが?」

 新入社員とは思えない気迫を持つ人なのに、そんなことを言うのが意外だった。

「力が入りすぎるんだよ。どうしてもこれが欲しいと思うと、うまく言葉が出ない」

 麻衣子が思わず彼の顔をみつめると、彼は目を逸らす。その頃になって、麻衣子はあることに気づく。

 にらむように麻衣子をみつめているのに、こちらが見ると目を逸らしている?

 春の陽気の中、会社のテラスはにぎやかで明るかった。社員の子どもたちが遊んでいるのか、弾んだ声が聞こえてくる。

 その中で麻衣子と彼の間に気まずい沈黙が流れる。

「行ってみたいな」

 初めて麻衣子から沈黙を破った。彼が振り向いた気配に戸惑いながら、テーブルの上の花をみつめて言う。

「レイリスに行ってみたい」

 花を見て夢見るなんて子どものようだけど、麻衣子は確かにそう思った。

 彼は麻衣子の言葉に口早に返した。

「昼と夜の温度差が二十度以上あるぞ。治安もよくない。やめておけ」

 たたみかけるように言うので、麻衣子は少し笑った。

 彼は息を呑んで黙って、なぜかポケットに手を突っ込んだ。

「え?」

 彼が麻衣子の前に差し出したのは、小さな星のような光の浮いたしずく形の瑠璃石だった。

 とっさにみとれてしまうのが止められなかった。それはテーブルの上で輝いている花と同じ光を放っていた。

「新城商事がレイリスを輸入し始めたのは俺のレクがきっかけだと言われて、輸入元の農家から贈られた。魔除けらしい」
「すごいことじゃない。あ!」
「渡す。君は危なっかしい」

 手を取って瑠璃石を握らされて、麻衣子は耳が熱くなるのを感じた。

 心臓が大きく跳ねた。どうしようと、手に瑠璃石を持ったままうろたえてしまう。

「もらえない。こんな貴重なもの」

 もちろん麻衣子はすぐに返そうとしたが、彼は受け取らなかった。

「俺だって、いきなりこんなことをするのはどうかと思ってる。でも」

 彼は目を逸らそうとして少し考えたようで、ふいに麻衣子を正面から見た。

 吸い込まれるような力を持った目と向き合う。そのときようやく、麻衣子もうかがうように視線を向けていただけで彼を正面から見ていなかったことに気づいた。

 男性の目が綺麗だと思ったのは初めてだった。格好つけない真剣なまなざしと、意思の強そうな口元が印象的だった。

「君はこうでもしないと外国に行ったまま、帰ってこない気がして」

 彼は苦笑して、麻衣子の目をみつめたまま一言ずつ言った。

「レイリスの意味は「共にある」と約束する言葉なんだそうだ」

 麻衣子の心にじわりと何か暖かいものが広がる。

「君は現地に行く仕事だと聞いてる。でも、一人で働くなよ。何かあったら頼ってくれ」

 どこかで本社勤務の他の新入社員たちと壁を作っていた。頼れる者はいなくなると思っていた。  

「一緒に働けるのが楽しみだ」

 麻衣子は見えない手で、頭をぽんと優しく叩かれたような気がした。

 彼は仕事の話をしているの。そう一生懸命言い訳をしなければ、弱い自分が甘えてしまいそうで怖かった。

 反田(あきら)と出会った日、麻衣子は少し怖くて暖かい、新しい世界に立ち入った気がしていた。