麻衣子が茶葉を指先でこすって顔を近づけると、花に似た甘い芳香を感じた。

「いい香りだろう?」

 傍らに立つ白衣の男性が身を屈めて問いかける。

 近い。麻衣子は顔をしかめて彼を見返した。

「毒物でも栽培が続いているのはこういう理由?」
「綺麗なものは身を守るため、ある種の毒を持つものだよ」

 彼は緑色の瞳を細めて顔を近づける。

「マイコ、君みたいに」

 麻衣子は茶葉を手から払って立ち上がる。

「案内ありがとう。帰社するわ」
「もう遅いよ。泊まっていったら?」
「ジャイコブ」

 麻衣子は冷えた目で下からでも彼をにらんだ。

「やめて。あなたとはそういう関係にはならないと言ったはずよ」

 ぷいと顔を背けて、麻衣子は農場の外に停めた自分の車に向かった。 

 独特の濡れたような草木の匂いと、夜になると一気に肌が粟立つ寒さを感じると、異国に来たのを実感する。

 麻衣子がレイリス公国に入国してそろそろ一年になる。 

 入社したときは名前だけを知っていた国で、今は毎日働いている。

 仕事に慣れた今は、花に憧れたときのような夢の世界にはいない。レイリス公国は気候の厳しい土地だ。

 夏は四十度を超える炎天下、冬は氷点下に倒れそうになりながら、時には長靴も意味がないほどのぬかるみに浸って作物を見る。肥料の匂いが染みついて、列車に乗った途端周りから振り向かれることもある。

 でも人は優しい。寄りかかりたくなるように腕を広げて待っているから困るのだ。

 麻衣子が車を走らせて帰社すると、右往左往していた若手社員につかまった。

「マイコさん、よかった! すぐ本社に折り返し連絡してください!」
「どうしたの?」
「ミスター・ヴァイスが……」

 その名前を聞いて、麻衣子は眉を寄せる。

 副社長氏(ミスター・ヴァイス)と社員たちが恐れるのは一人だ。

 またあいつ。唇をかみながら報告を聞き終わると、麻衣子はモニターの前に座って呼び出しをかける。

「コーディネーターの相原です。反田氏は在席されていますか」
 
 麻衣子が本社の秘書に口早に問いかけると、画面が切り替わって一人の男性が映った。

 仕事中の彼は、ナイフのような空気をまとう。支社の社員は、彼と向き合うと審判を待つ罪人のように感じるとも言う。

 麻衣子は少し違うように感じる。麻衣子だって、本社の社員たちに血の通わない人形のように言われるからだ。

「来たか、相原」
「反田氏、海路輸送の計画を白紙に戻すとは本当ですか」

 海路輸送は麻衣子がいるレイリス支社の新規プロジェクトで、一年近く前から支社を挙げて進めてきていた。

 今更止められるプロジェクトではない。麻衣子は断じて受け入れない気でいた。

「担当に説明したとおりだ。今動くべきではないと判断した」
「社長にレク済の計画です。原油価格も再三検討したはずです」
「輸送ルートの政情不安は?」

 一瞬麻衣子の目が細められたのを、彼は見逃さなかったらしい。

「向こう三年程度は、黒海経由はリスクが大きい。そこで仕事をしている君は当然理解しているだろうが」

 麻衣子は内心の不安を言い当てられたのを悟られないよう、目を逸らさずに首を横に振った。

 彼の言う通り、麻衣子は当然知っている。だが、だからこそ通したかったのだ。

 麻衣子は顎を引いて言い返す。

「リスクを克服できる利益があるから進めているのです。私たち支社の社員が現地で検証を続けた結果です」
「社員の安全を害する仕事を任せるわけにはいかない。本社の決定だ」

 副社長氏というのは通称で、彼は本社の部長の一人だ。

 ただ、引退間近の社長の右腕をしている。息子である次期社長の親友でもあり、本物の副社長になる日はじきに迫っていた。

「再レクを求めます」

 麻衣子は怯みそうになる自分を奮い立たせて言った。

「リスクを考慮しても利益を出せる計画だと確信しています。一週間後、三十分で結構です。時間をいただきたい」

 彼は黙って、一息後に返した。

「わかった」

 短く調整をした後、ひとまず保留ということに決まった。

「マイコさん、助かります!」

 通信を切ると、傍らで固唾を飲んで見守っていた若手社員たちは半泣きで喜んだ。

「副社長氏の最後通牒にノーが言えるのはマイコさんだけです!」
「怖くないんですか?」
「怖いわ。いつも」

 思わずこぼした本音を、麻衣子は首を横に振ってごまかす。

「何でもない。それよりレクの準備に取り掛からないと」
「もちろんです! すぐ資料作ります」
「そうね、まず」

 麻衣子は何気なく彼らを見上げて、気づかれないように息をついた。

 目の下にクマがある。ここのところプロジェクトに追い立てられて彼らの仕事が詰まっているのは知っていた。

「私が要点を整理して明日渡すわ。今日は帰りなさい」

「で、でもマイコさんの自分の仕事が」

「自分とか他人のものじゃないの。仕事はチームのものよ。調整が私の仕事」

 麻衣子は目を逸らしてそっけなく言う。

「あなたたちが倒れる方が、私の仕事の邪魔よ」

 彼らはうつむいて、はいとつぶやいた。

 暖房が鈍い音を立てる夜のオフィスで、麻衣子は一人資料を作る。眠気覚ましのミルクコーヒーの匂いが漂う。

 入社して十年が経つ今、つらくてやめたいと思ったことくらいはある。でもそれより、やり遂げたい思いの方が強い。

 表計算も社会人マナーも知らず、おぼつかない顔をして事務所の隅にちょこんと座った最初の頃よりは強くなった。

 就職の直前、麻衣子は一人で麻衣子を育て上げてくれた父を病気で亡くした。

 就職は、麻衣子がまだ子どもなのに残していかなければいけないと時々隠れて泣いていた父を安心させたくて急いだだけで、内容は何でもよかった。

 でも最初に勤務した現地支社の人たちは暖かくて、いろいろなことを一つずつ教えてくれた。みんなそんな人の好さだったから支社は経営がうまくいかずに解散してしまって、今ではどこにいるのかわからない人たちばかりだが、ずっと感謝している。

 その次の職場は皆優秀で、麻衣子は揉まれながらキャリアを重ねた。今度は事業がうまくいったゆえに本社から優秀な社員がどんどん送り込まれてきて、結果的に麻衣子は支社を離れることになったが、幸いすぐに次の仕事はもらえた。

 時々は悪い人もいた。二度と会いたくないくらいに反りの合わない上司もいた。でも後から思い出せばどれも日常の一つで、どこかで元気にやっていてくれればいいとだけ思う。

 支社を転々とする仕事に満足している。たぶん今も亡き父にしか寄り添っていないからだ。

 最後まで麻衣子のことばかり心配していた父に胸を張れるようにと、がむしゃらに働いてきて……ただ、それだけになりきれない自分に後ろ髪を引かれるだけだ。

 麻衣子はパソコンから手を離して、タイの下から瑠璃石を取り出す。

 彼はきっともうとっくに恋人もできてる。でも気がつけば子どものような顔でこれをみつめていて、時々目がにじむ。

 ふいにパソコンに着信があって、麻衣子は慌てて瑠璃石をタイの下に隠す。 

「まだいたのか」

 モニターに映った顔はどう見てもばつが悪そうで、麻衣子は苦笑した。

「反田君のおかげでね」

 晃はそれを聞いて眉間のしわを濃くした。

 麻衣子は首を横に振って言う。

「冗談よ。反田君が言ったことは、私が言わないといけなかった」

 晃と麻衣子は一応同期ということになるのだろう。でも入社前から社長に見込まれて、ずっと本社で中心的な仕事をしている晃と、現地を回る前提で入社した麻衣子とでは立場がまるで違う。

 麻衣子が笑うと、パソコンの向こうで晃は目を逸らす。

「俺は立場上言っているだけだ。俺には相原の言葉こそいつも耳に痛い」

 年々、出世コースを歩む晃と出世コースに背を向ける麻衣子では、仕事で対面することも少なくなった。

 ただ終業時間もだいぶ過ぎた頃、晃はたびたびこうして連絡してくる。

 晃は顔を上げて麻衣子を見る。

「無理をしていないか?」

 そう言って気遣うのをやめない彼と向き合うと、麻衣子が目を逸らす番になる。

 決して仕事に手を抜きたくないから、ついやりすぎるときがある。同僚を追い払って仕事を抱える自分は、あまり要領がよくない自覚がある。

 晃もたいがい遅くまで仕事をしているが、彼と麻衣子の決定的な違いがある。

「レクの資料、全部自分で作ろうとしてないだろうな。ノーを言うことも覚えろ」

 麻衣子が心の中にくすぶる情で言えなかったノーを、晃はためらいなく口にする。

 晃にノーを突き付けられるたび、またあいつと舌打ちしながら、やっぱりそうきたかと思う。社長が彼を信頼するのはそこを評価されているのだと、支社の社員たちも認めていた。

「私、こういうやり方しかできないのよ」

 それでいて麻衣子にぎこちなく優しいから、本当はうれしい。

 沈黙が流れて、晃は首を横に振る。

「悪い。責めるつもりで言ったんじゃないんだ」
「いいの。私があなたの言う通りにはできないだけ」

 一緒に働いているのは違いないのに、いつの間にか遠い立場になっているのが少し寂しい。

「あなたも無理しないで。じゃ」

 麻衣子は多少強引に通信を切った。

 タイの上から瑠璃石を押さえて、その下の心臓が主張しているのを聞かないふりをする。

 晃が心配してくれるのはまるで父親のようだから、じわりと心がほころびそうになる。

 それだけと思っていないと、心の底に蓋をして押さえている、新入社員の頃の麻衣子が泣きだしそうになる。

 副社長氏とただの一現地社員の自分は、もう十分に別の世界の住民だというのに。

 けれど彼が消えた黒い画面に映った麻衣子は、やっぱり少し夢見るような目をしていた。