レイリス公国は厳しい気候で国土も狭く、細々と農業で生計を立てていた国だった。

 戦後まもなく多国籍企業の誘致に成功し、ずいぶん国民の生活水準が上がったが、近年は近隣諸国の政治不安のあおりを受けて経済が伸び悩んでいる。

「時代遅れと言われようと、僕らの生命線はやはり農業みたいなんだ」

 温室に咲く花を見せながら、案内人のジャイコブが苦笑する。

「幸い先人たちが冷蔵技術を確立してくれたし、レイリス産というネームブランドも出来た」
「でも輸出手段が先細ってる」

 麻衣子は泥の中から伸びる茎をすくいあげて言った。

「陸路も空路も近隣諸国の妨害が多い。黒海経由の海路は悲願だと聞いてる」
「そうだ。まあ輸出できなければ昔の生活に戻るだけなんだけど」

 ジャイコブは首の後ろで黒髪を結びなおして、冷たい笑みを浮かべる。

「その場合、現政権は失脚するだろうが」

 ジャイコブは褐色の肌に肩まである黒髪、緑色の瞳を持つ青年だ。どこか酷薄な印象を持つ彼は、レイリス大公の甥に当たる。

 彼は二十七歳の若さでレイリスの王立農業研究所の所長をしていて、麻衣子たち外国企業の視察に応じている。

 王族を差し置いて政権を独占する首相一族にも、利益を奪っていく外国企業どちらにも良い感情を持っていない。

「どちらでもいいと言いながら留学も海外へのトップセールスもして、熱心に打開策を探してるわね」
「家族を守るのは男の義務だからね」

 麻衣子にとってジャイコブとの付き合いは七年ほどになる。

 社内研修でひと月留学したとき、彼も遊学していて机を並べていた。その後も麻衣子が海外の現地に行くと、たびたび周辺国へのセールスに来ているジャイコブと出会った。

 レイリス支社と共同で海路輸送のプロジェクトを進めている王立農業研究所はかけがえのないパートナーだ。麻衣子もここ一年は農地と王立農業研究所とを行き来する毎日だが、付き合いの長さもあってジャイコブにずいぶん助けてもらった。

「愛する女性に振り回されるのは男の喜びだしね」

 ジャイコブは宝石じみたミステリアスな瞳を細める。麻衣子はそれに飲まれないように硬い調子で話題を戻す。

「海路輸送のプロジェクトは再レクになったわ。本社は最悪、海上封鎖がされて社員が危険にさらされるのではと気にしているの」
「現地社員など社員とも思っていないのによく言うね」

 冷ややかな言葉は、彼らが外国企業から受けてきた仕打ちへの素直な感情だ。麻衣子はそれに正面から返した。

「何とでも言って。とにかくボールは打ち返された。私は来週日本に発ってもう一度レクをしてくる」
「一人で? うちからも人を出そうか?」
「まだ反田氏がノーを突き付けた段階と理解してる。いよいよ社長がプロジェクトを覆す時になったら応援を頼むわ」

 ふいにジャイコブは黙って麻衣子をみつめた。

 彼は後ろ手に温室の扉を閉める。外の音が遠ざかって空気の流れが止まる。

「ジャイコブ?」

 さんさんと天窓から降り注ぐ光の中、ジャイコブは扉に背を預けながら鍵をもてあそんでいた。

「時々本気で、君をここに閉じ込めてしまおうかなと思う」

 空気の流れが止まると、甘い花の香りがむせるように広がる。レイリスの花の香りは強く、度が過ぎれば毒にもなる。

 麻衣子は波紋が広がる内心を押し殺して、にらむようにジャイコブを見返す。

「冗談はやめて」
「君はまだ僕を見くびっているね」

 ジャイコブは不遜な笑みを口元に刻んで言った。

「僕は今も、言葉もたどたどしい、年下の留学生に見えているかな?」
「あなたは出会ったときから今まで、レイリスの未来を負って立つ王族よ。初めての留学で隣に座っただけの同級生なんて並び立てないわ」

 麻衣子に歩み寄って、ジャイコブは少し屈みながら麻衣子と目を合わせる。

「よく見て。君にプロポーズした少年は、もういつでも君と結婚できる男になってるはずだよ」

 緑の瞳に濡れたような熱が宿るのを見て、麻衣子は気圧されそうになる自分を叱った。

 ジャイコブから一歩離れて、麻衣子は息をつく。

「七年前に断ったわ」
「じゃあ僕が今同じことを言ったらどうする? 「ミス・アイハラ」」

 出会った頃の呼び名に麻衣子が目を上げると、ジャイコブは見透かしたように口元だけで笑ってみせた。

「やっぱり閉じ込めたくなるな。僕だけをみつめて過ごしていたら、君もレイリスの青い花みたいに僕なしでは生きられなくなるだろう?」

 ぞくっとしたものが背を走っていく。怯えだけではないそれに気づいたのか、ジャイコブは今度はゆったりと笑った。

「日本に行ってくるといい。君はまたレイリスに戻って来る」

 ジャイコブは麻衣子から離れて、片手で温室の扉を開く。一瞬温室の中に満ちた甘い香りは外に逃れて、張り詰めたような緊張も散っていく。

「腕いっぱいの花束を用意して待っていよう」

 頬に熱を帯びた視線を感じながら、麻衣子はジャイコブの横をすり抜けた。