日本に発つ日の朝、麻衣子はジャイコブから電話を受けた。

「あなたに個人用の携帯番号は教えていないはずだけど」
「つれない君だからこそ伝えておくことがあってね」

 しかめ面をした麻衣子に、ジャイコブは電話口で声をひそめる。

「レイリスへの帰国は三日後だったね? フライト前にこの番号に連絡してくれ。迎えをよこすから」
「必要ないわ。何度も言うけど、日本では女性が車を運転するのは普通のことよ」
「三日後には必要になるよ」

 ふいにジャイコブが語気を強めた。麻衣子は反射的に周りで聞いている人がいないか見回す。

 麻衣子はレクの最終調整のためにレイリス支社に来ている。幸い閉め切った休憩室はガラス張りで見通しが良く、誰かに聞かれた様子はなかった。

「まさか」
「君は察しがいい。そういうことだ」
「私を迎えに来てる場合じゃないでしょう。あなたは大丈夫なの?」

 電話の向こうで、ジャイコブがふっと笑う気配がした。

「心配してくれるんだ。じゃあもう一押しなのかもしれないな」
「ジャイコブ、冗談を言ってる場合じゃ」
「そう、冗談じゃない。王族だろうと一市民だろうと、愛する人を守れない男なんか男じゃない」

 言葉に詰まった麻衣子に、ジャイコブは念を押すように言った。

「必ず連絡して。いいね? でないと僕が直接迎えに行って、君が来るまで待ってるから」

 強引に通話が切られた携帯電話を、麻衣子は少しの間みつめた。

 王族のジャイコブからの情報なのだから、三日後までに何事かが起こるのは確かなのだろう。

 まさか、再レクをしようとするこのタイミングで? 歯噛みしたい思いはあるが、今更再レクを取り下げたらもっと状況が悪くなる。

「マイコ、そろそろ出られる?」

 なかなか休憩室から出てこない麻衣子を心配したのだろう。支店長のライアンが入ってきて尋ねてくる。

 ジャイコブには言わなかったが、ライアンが近くまで行くついでに空港まで麻衣子を送るといって譲らなかった。そうじゃないと単身で海外出張なんてさせられないと、他の同僚たちも口をそろえた。

 携帯電話を握り締めて口ごもった麻衣子は、たぶん青ざめていた。一年近く麻衣子を見てきた彼が、それを見逃すはずもなかった。

「電話の相手は、シーザム卿?」

 ジャイコブは国民からは領地名を取ってシーザム卿と呼ばれている。ジャイコブが何かと麻衣子にアプローチをかけているのも、支社の社員たちには公然の秘密だった。

 ジャイコブが麻衣子に耳打ちしたのは極秘情報だ。でも支社のみんなにも危険が迫っているかもしれないのに、口を閉ざしていいのだろうか。

「いいんだ。聞かないよ」

 とっさに何も言えなかった麻衣子に、ライアンはそれ以上追及したりはしなかった。

 麻衣子が無意識に逸らしていた目を戻すと、ライアンは困ったなというように苦笑していた。

 麻衣子は申し訳なくなって、早口に言う。

「ごめんなさい。必ず要求を通して帰って来ますから」
「帰って来る気?」

 思わぬ言葉で遮られて麻衣子はまばたきをする。ライアンは紅茶色の瞳を揺らして、突き放すように言った。

「帰ってこなくても誰も責めないよ」

 きっと初めてレイリス支社に来た頃だったら、麻衣子は壁を作られていると思っただろう。

 でも揺籠のような彼らの優しさを知った今ならわかる。彼らが口にしているのは、そんなに簡単な言葉通りの意味じゃない。

 麻衣子は首を横に振って言う。

「冗談と受け取っておきます。私は仕事をするために行くのですから、必ず仕事をするために戻って来ます」

 もっと上手な言い方があったに違いなくても、麻衣子はライアンを見据えて思いを告げた。

 ライアンは眉を寄せて何か言おうとしたが、首を横に振って黙った。

 空港までの車の中、いつも陽気に冗談を言っているライアンはほとんど何も話さなかった。

「送ってくださってありがとうございました」

 ただ麻衣子が車から降りてお礼を言うと、ライアンは窓を開けて麻衣子を見た。

「レイリスの名のとおり。君と共にあるよ」

 ライアンは彼らが別れ際に告げる言葉を麻衣子に贈る。麻衣子はずいぶん長いこと、背中に見守られている気配を感じながら歩いた。 

 麻衣子は待合室でコーヒーを飲みながらレクの資料を読み通して、飛行機に乗り込む。

 フライトの間も、読書用ランプをつけて資料を見ていた。

 少しだけ眠っていたらしい。気が付いたら朝食を知らせるアナウンスがかかっていて、麻衣子は硬い座席から身を起こした。

 窓のシェードを下げて外をのぞきみると、眼下に陸が見えていた。

 まだ着陸時間ではないから、日本列島ではない。でも麻衣子はその地面さえ懐かしくて、つかのまぼんやりと見下ろした。

 帰国するたび、これが最後かもしれないと思う。

 海外支社ばかり回るようにしたのは、そういう仕事がしたかったというのももちろんあるが、本社に行きたくなかった理由も大きい。

――何かあったら頼ってくれ。

 本社にいたら、入社した日に晃にかけられた言葉に甘えて、そのまま寄りかかってしまいそうだった。

 支社にいると晃と対立することの方が多かった。意見が衝突するたびに、今度こそ嫌われて二度と連絡もくれなくなるかもしれないと泣きたくなったが、それでも彼に甘えて一人でいられなくなるよりはましだった。

 何度後悔してもしきれないことがある。父があんなに早く逝ったのは自分のせいだ。

 父は元々そんなに体の丈夫な人じゃなかったのに、子どもの頃は病弱だった麻衣子に振り回されて無理をして、自分の体を壊してしまった。

 子どもの麻衣子は大好きという思いのままに父に無心におぶさって、大きくなった体で一番大事な人を押しつぶしてしまった。

 好きという気持ちで甘えると、好きな人をひどく傷つけてしまうんだ。二度と大好きな人を傷つけない。父が亡くなったときに誓った。 

 それなのに、どうして私はまた人を好きになっちゃったのかな。麻衣子は自分がわからない。

 父を失ったばかりだったのに、初めて会ったあの日から晃のことが好きだなんて、誰にも言えなかった。

 なんだか本当に、最後の帰国のような気がしてきた。麻衣子は苦笑して、背もたれに背を預けた。

「まもなく着陸します。お手荷物の確認を……」

 でも生きている者は進み続けなければいけない。今はただ、私の選んだ仕事に向かって進む。

 麻衣子は朝食を食べ逃して空っぽになった胃にミネラルウォーターを流し込んで、今度こそ見え始めた日本列島に目を細めた。