新城商事の本社は、支社の社員が想像するよりだいぶこじんまりとしている。

 港から電車で二十分ほどの最寄り駅から、歩いて十分坂道を上った先に五階建ての建物がある。

 一階と二階のテラスは緑のカーテンに覆われた洋館風の建物をしていて、イベント用に使われる。三階から上がオフィスだが、社員の数はそれほど多くなく、全体で三十人ほどの小さな職場だ。

 ただ会社の規模は大きい。明治初期に創業されて百年が経ち、世界中に二十一の支社を持つに至った。支社を束ねる責任からか、オフィスには緊張感が漂う。

 麻衣子はレイリス支社に配属されてから帰国していない。本社に来てレクをするのも、一年ぶり近くになる。

 新城社長自体はいつもおだやかに構えている人だ。プレゼンではなくレクチャーという言葉を好んで使う。現地のことは現地の方に教えてもらうのが一番だというのが信条だ。

 その一方で、副社長氏と呼ばれる反田晃は冷酷と現地に恨まれることもあるくらい厳しい。

 麻衣子は今まで直接晃にレクをする機会はなかったが、彼がノーを突き付けた案件はまず通らないと聞いている。

 でも今回のプロジェクトは社長も認めた案件で、副社長氏は今一度見直すようにと言ったに過ぎないのだから。そういった現地のすがるような目算は甘いと思いながら、麻衣子も少しだけ期待していた。

 一度深呼吸した後にレク室をノックして、麻衣子は部屋に立ち入る。

 最初に目に留まったのは晃だった。見上げるほどの長身と威圧感のあるまなざしは目立つ。

 彼は仕事中、一切表情を変えない。会社の悪役を自負する副社長氏は、一昨日会ったときとは別人のようにも見えた。

「久しぶり、相原さん」

 麻衣子に声をかけたのは、懐かしい声だった。

 視線を移すと、いつも社長が座る席で彼の一人息子、新城出海(あらきいずみ)が立ち上がったところだった。

「遠路お疲れ様。元気だった?」

 にっこりとおだやかにほほえんだ出海も麻衣子と同期だ。

 彼が本社にいることは珍しい。彼も麻衣子のように支社を転々としている。

 ただ彼の場合は次期社長として現地で下積みをしているのであって、見た目の好青年ぶりに反して手厳しい面も持っているのを麻衣子は知っている。

「おかげさまで」

 その仕事ぶりと人柄は尊敬しているが、今はありがたくない。麻衣子はそっけなくあいさつをして席についた。  

 レク室には晃と出海、麻衣子、他に三人の本社社員がいた。一人でやって来る麻衣子に威圧感を与えないよう、ただし次期社長と副社長氏が在席して最大限の姿勢で迎える。出海の提案しそうな配慮だが、ここでけりをつけようとする晃の意図かもしれなかった。

 立場ばかりが違う同期の顔を見ながら、麻衣子のレクが始まった。

「レイリスの農作物はいずれも十年前に国際基準をクリアした、優良商品がそろっています」

 麻衣子は全員が一致した認識を持つメリットから切り出した。

 海外を飛び回っている出海なら当然、そして晃もよく知っている事実だ。そもそも新城商事がレイリスから輸入を始めたのは、晃の入社試験の初レクがきっかけだ。

「花を筆頭にして、比較的安価な果物類、ヨーロッパにひけを取らない酪農商品。日本での売上実績が高いものばかりです」

 スクリーンに映し出される写真とグラフはたかが数分のスライドに収まるが、レイリス支社の社員たちの誇りが詰まっている。十年前にはなかった道を切り開いてきた彼らの汗の結晶だ。

 麻衣子も今回のレクの準備にあたって、この辺りについて支社の社員たちの資料に手を加える必要はなかった。レイリスからの輸入には揺らがない実績がある。

 実際、出海はうなずいて聞いていて、晃も表情こそ変えなかったが異を唱えることはなかった。

「ではここから、懸案となっているリスクについて説明しましょう」

 麻衣子は華やかなスライドを消して、あえて文字ばかりのスライドを映した。

「ご存じのとおり、三年前にレイリス近隣で四か国を巻き込む内戦が勃発し、陸路輸送が断絶しました」

 とても明るい昼のオフィスでは見せられないが、麻衣子は陰惨な写真の数々をレイリス支社で見た。日本では遠ざかった戦争は、レイリスには国境をまたいだすぐ隣の出来事だ。

 内戦自体は半年で終結したものの、爪痕は深かった。陸路輸送も同時期に復活したものの、政情不安に押された輸出制限は今も続いている。

「空路輸送は原油価格の値上がりを受けて、あと三年でコスト超過が見込まれます」

 売上を出さなければ仕事を失う支社社員にとっては危機的状況でも、説明しないわけにはいかない。麻衣子は前を向いて淡々と言い切った。

 ここまでは今更の説明だと麻衣子もわかっていた。次期社長と副社長氏が、新聞でもわかる国際情勢を見ていないはずはない。

 けれど麻衣子はレイリス支社の社員として、もう一歩先を彼らに見せる必要があった。

「そこで一年前から始まった、まったく別方向の海路輸送プロジェクトで見込まれる利益……は、今日私が伝えに来たことではありません」

 出海が軽く眉を上げる。麻衣子はスライドを切り替えて、レイリスを中心に真っ赤に染まった地図を表示させた。

「もし明日政変が起きて、最悪陸路も空路も完全に止まった場合をシミュレーションしてきました」

 麻衣子は赤く染まった地図に、新城商事の損害を次々と積み重ねていく。

「わずか一年で、今まで黒字基調だったレイリス支社の実績がマイナスに突入します。けれど損失を取り返すにも資本は喪失しており、完全な赤字が続くでしょう。そして」

 麻衣子は目を細めて、本当は口にもしたくない未来を告げる。

「信用の崩壊、貸倒れの連発の財産的損失の先に、人損が現れます」

 同僚の誰かが亡くなる。シミュレーションだとしても、それを想像しただけで胸に激痛が走った。

「元々対外感情がよくない地域です。最悪の場合はレイリス支社を一時閉鎖するでしょうが、海外企業への敵意はかえって増すでしょう。近隣諸国で実際に暴動が起きて、現地社員が犠牲になったのは記憶に新しいですね」

 麻衣子の偽悪的なほどのシミュレーションを出海と晃が笑わなかったのは、近隣諸国で同じことが起こったのを彼らは知っているからだ。的外れなシミュレーションとは誰も言えなかった。

 麻衣子は二人の視線を感じながら、一息ついてスライドを切り替えた。

「ここに海路輸送を進めていた場合を重ねます」

 最悪のシミュレーションのグラフに青いラインが重なる。海路輸送の実現には最低あと二年はかかる。だから二年間は何も変わらない。

 ただ三年目に、青いラインは緩やかに上昇を始める。実績はマイナスのままだが、表の外にある未来にはプラスに転じるだろう。

「ここ三年が勝負です。海路輸送にはリスクがありますが、輸出を続ける先に確かな効果が現われます。リスクのいくつかを減らし、あるいは人損も避けられる可能性があります」

 長く尾を引くと思われる信用の低下を食い止め、人損も数行斜線で消される。

 麻衣子は利益を主張しなかった。海路輸送は現地社員のリスクがあると言った晃に、それをしなければもっと大きなリスクとなると押し返した形だ。

 おそらく一度始まれば、損害は避けられない。支社の同僚たちの顔が頭をよぎって、こんな斜線でそれを減らせると大きな口を叩いている自分が少し嫌だった。

「シミュレーションは五年で終了しますが、十年後も想定していただければどちらを選ぶか、結論は明白です。以上です」

 麻衣子が二つの未来を示し終えると、出海が拍手を贈った。

 暗くしていた照明を戻すと、出海の苦笑が見えた。

「何度も本社に誘ったね。君がぜひ欲しいと思うからだよ。支社にいたらむしろ想定したくない最悪のシミュレーションを、よくここまで積み上げた」

 それは苦味をこめた誉め言葉に違いなかったが、麻衣子は素直に喜べなかった。

 きっと彼は、と思った。晃との十年来の付き合いが、黙って聞いていた彼の内心を想像させていた。

 案の定晃は一度目を伏せて、麻衣子を見据えた。

「最悪の場合を想定したのは、現実にその事態が迫っている情報があるんじゃないか?」

 晃がそう言ったとき、それは矢のように麻衣子の不安に突き刺さった。

 やはり彼は言うのだ。麻衣子は表情には出さないまま緊張した。

「隠すな。現地では薄々わかっている情報でいい。話してくれ、相原」

 どうしてこの人には見えてしまうのだろう。麻衣子は歯噛みする思いでそれを聞いていた。

 ジャイコブの電話は、政変に関わるものだ。それを否定しなかったライアンの態度からも、レイリスで近いうちに何事か起こる。

 でも本社にリークされたら彼の立場も危うくなるのに、ジャイコブは麻衣子への好意から耳打ちした。

 だからこそこの情報は本社には言えなかった。年下の留学生を庇う気持ちも、同僚たちの生活がかかっているという気負いも、麻衣子の甘さだ。

「私たちは常に必要な情報を提供しています。操作はしません」

 甘さを捨てきれないのが麻衣子で、断じて主張を変えることはできなかった。

「本当に、ないんだな?」

 一瞬、晃の表情に一昨日の切実さがよぎった気がした。

 麻衣子の中の弱さが出てしまいそうになる。麻衣子だって実際のところは何が起こるかわからず、危険に巻き込まれるのは怖い。

 でも打ち明けて麻衣子だけ楽になったとしたら、麻衣子を送り出してくれたジャイコブにもライアンにも、支社のみんなにも胸が張れない。

 晃に寄りかかろうとする内心を振り切って、麻衣子は首を横に振る。

 ありません。麻衣子が明らかな嘘をつくのを止めたのは、出海の一言だった。

「今度は本社が考える番かな」

 麻衣子と晃、どちらも不満をこめた目で出海を振り向いたが、出海は社長譲りのおおらかさで二人の視線を受け止めた。

「取引を始めるには多少の時間と確実な信頼関係が必要だ。父もよくそう言っているね?」

 出海が口にしたのは確かに創業以来の新城商事のやり方で、麻衣子と晃は渋々ながら反論の言葉を飲み込む。

 次は一月後、現地の社員と本社の社員を三人ずつ交えてレクをすると決まり、麻衣子単独の再レクは終わった。