大事な話と聞いて、麻衣子には一昨日のもう一つの電話が蘇った。

「麻衣子さん、明後日は楽しみに待ってますね」

 新城璃子(りこ)は電話ごしに弾んだ声で言った。

 璃子は出海と一回り年の離れた妹で、まだ二十一歳になったばかりだ。

 小柄で引っ込み思案で、壊れそうな雰囲気をまとう。入社した年のビュッフェ会で初めて会ったが、出海の袖を握りしめながら真っ赤な顔であいさつしてくれたのがほほえましかった。

「元気な顔を見せてくれればそれでいいわ」

 出会った頃、体が弱い子だった。その一生懸命してくれたあいさつの直後も、璃子はうずくまって意識をなくした。

 騒ぎになったその場で麻衣子がてきぱき介抱したのがきっかけで、日本に帰るたび食事をする仲になっている。

「もういきなり倒れたりしませんよ。私、大学も卒業できたんですから」
「ふふ。そうね、ごめん」

 麻衣子が慌てず対応できたのは、自分も子どもの頃、よく貧血で倒れたからだった。

 貧血は大人になればある程度自分で対処できる。璃子は今でも時々貧血になるそうだが、きちんと一人暮らしもしているようだ。

「十一歳の璃子がまだ私の中にいるから。いつの間にかそんな年になったんだって、不思議な気分になるの」

 帰国するたび成長していく彼女を、妹のように見守ってきた。麻衣子は出世には興味がないから、璃子が社長令嬢であることはどちらでもよかった。

 けれどいつも麻衣子が璃子を助けているようで、実は助けられていたことに気づいたときがある。

 麻衣子が一つ前の支社で勤務していた頃、長雨で作物への病害が発生した。他国は人への影響はないと主張する一方で、次々と輸入制限をかけていって、新城商事も撤退寸前まで来ていた。

 外国人の麻衣子は板挟み状態で、連日支店長から膨大な残業を押し付けられていた。

 日付が変わる頃になっても少しも終わりが見えない仕事に、麻衣子は途方に暮れながら思った。

 私はただのやっかみで無意味な残業をさせられている。私がこの仕事をこなしたとして、農家を苦しめている雨がやむわけじゃない。

 でも何度そう思っても、麻衣子はどうしても仕事を放り出せなかった。

 この仕事をがんばったとしてどうにもできなくても、歯車の一つのように、自分が回し続ければ回るものもあるんじゃないか。

 だんだんと無表情になって、深夜のオフィスで孤独な戦いをしているとき、晃から通信が来た。

 知ってる。俺がもうやめろと言っても、相原はやめないんだろ。彼はそう言ったきり、表情もなくした麻衣子をみつめたまましばらく黙っていた。

 少しでいい。携帯を見てくれないか。彼はそう言って、無理だけはするなといつもの言葉を残して通信を切った。

 麻衣子がしばらく見ていなかった私用の携帯を見たら、本社からもあちこちの支社の同僚からも結構な数のメールが来ていた。

 日本にほとんど帰らず、他の社員とはめったに会えない麻衣子を心配している同僚が何人もいることを知った。

 その中で一番何度もメッセージをくれていたのが、まだ高校生の璃子だった。

 麻衣子さんは今大変だと聞いています。でも今日は帰って休みませんか。麻衣子さんにそうしてほしいと思っている人は、麻衣子さんが思ってるよりたくさんいますよ。

 そのメッセージはふいに麻衣子に響いた。麻衣子は仕事を切り上げて帰って、久しぶりに深く眠った。

 仕事が片付いたわけじゃない。でも翌朝窓からのぞいた空に虹をみつけて、ぽろぽろ泣けてきた。

 私、思ったより一人じゃなかった。雨がやんだのは私の仕事のおかけじゃないけど、今日の空は晴れてる。それだけのことは案外うれしいものだと、璃子が気づかせてくれた。

 うれしい反面、あの小さかった子はもう私を励ますようになったのだと思って、少しだけ寂しかっただけだ。

「実感がわくまでもうちょっと待って。璃子は大人で、一緒に歩む人を選べる年なんだって」

 大事な人を紹介したい。璃子が数分前に切り出した言葉が、麻衣子に驚きと喜びを運んでくる。

 気取らない性格の璃子だから、つい忘れていた。彼女は世界中に支社を持つ会社の社長令嬢だ。大学を卒業すればそういう話も持ち上がるのは、考えられることだった。

「黙っていてごめんなさい。大学に入るときにお話はあったんですが、私が卒業するまではと待っていてくださったので」
「いいのよ。むしろ内々の話を打ち明けてくれてうれしいと思ってる」

 政略結婚という言葉が思い浮かぶ。彼女の生きている世界にはそれも十分にありうる。麻衣子は一瞬不安がよぎって、訊ねるのをためらった。

「お相手は、私が聞いていいことなのかしら」
「麻衣子さんもよく知っていらっしゃる方です」
「そうなの?」

 案外同期だったりして。麻衣子が目をぱちくりさせたら、電話の向こうで璃子は楽しそうに締めくくった。

「すごくびっくりされると思いますよ。では、明後日の夕方七時に」

 電話を切った後、璃子には敵わないと思わず噴き出してしまった。この調子なら、きっと好き合っている相手なのだろう。

 本社で再レクを終えた後、夕方七時にいつもの洋食レストラン。麻衣子は璃子の婚約者と会う約束になった。

 彼女が社長令嬢であることは気にしないと思いながら、一現地社員の自分とは違うとどこかで線を引いていた。

 けれど璃子が出会った頃から今まで、麻衣子にそんな温度差を感じさせないのが救いになっていた。折しもレイリスに危機が迫っている時期、今度はいつ帰国できるかわからない。

 ただそういういろいろな理由を置いておいて、実際はクリスマスに好きな人と真向対決するのが嫌で、ちょっと逃げたかったのかもしれない。

 そう弾んだ気持ちで一昨日に決めた約束を、麻衣子は今青ざめながら思い返している。

 大事な話をする。本社で聞いた晃の言葉ががんがんと頭に木霊する。

 悪い予感に怯えて、一旦はホテルまで戻った。でも、約束したんだからとやっとのことでもう一度電車に乗って、町にやって来た。

 たぶん迷子のような足取りで歩いて、麻衣子は街角を曲がった。

 日本に来るたび璃子と食事をするいつもの洋食店は、クリスマス仕様なのか、緑の看板に赤いペンでデコレーションがされていた。

 赤茶色の明かりが店内を照らしていて、窓辺に座る二人を映している。

 一人はふんわりとした淡いピンクのニットが似合う、璃子だった。

 もう一人は引き締まった体躯を一分の隙もなくスーツで包んだ晃だとみとめたとき、心が凍り付いた。

――ありがとう、璃子。

 晃が麻衣子には見せないような柔らかい表情で、苦笑しながら言ったのが見えた。

 ……ああ、そうだったんだと、麻衣子は急にいろいろなことが見えた気がした。

 晃が今まで結婚しなかった理由。あの苦しかった頃、璃子から何度も励ましのメールが麻衣子に送られていたのを晃が知っていた理由。

 副社長氏と社長令嬢、並んでみればまるで絵のようにお似合いだった。

 麻衣子は踵を返して走り出していた。雪が降りだしていた。

 しゃくりあげて泣いていた。涙が流れた頬に雪がかすめて、痛かった。

 ホテルに戻ってからもシーツをかぶって泣いた。世界は真っ暗で、なんにも見えなかった。