日菜子が勤める美星建設(びせいけんせつ)株式会社は、業界最大手のゼネコンだ。
売上は単独でも一兆五千億を越え、連結であれば二兆円に届く。 

 公共事業からスタジアム、ランドマークになる高層ビルやマンション。国内外のあ
りとあらゆるものを建設している。

 日菜子はその中核である設計本部で、アシスタントとしてCADオペレーターをし
ながら事務に携わっていた。

「遅れて申し訳ありませんでした」

 会社に到着しデスクに荷物を置くと、すぐに部長の元に向かう。

「おお、松風さん。君が遅刻だなんてめずらしいな。いったいどうしたんだ?」

 部長は仕事の手を止めて、心配そうに日菜子を見る。

「あの……実は痴漢が――」

「なんだ! 痴漢に遭ったのか? 君みたいなおとなしい子は狙われやすいだろう、
大丈夫かい?」

「いえ、あの……まあ。はい」

 真実を言えば、日菜子自身が痴漢に遭ったわけではない。けれど迷惑を被ったのは、
間違いない事実なので否定しないことにした。

「君のことだ。もし辛いなら今日は仕事を休んでもかまわないよ」

 優しい上司の言葉に、良心の呵責を感じ胸がチクッと痛む。

「いえ、もう大丈夫ですから。ご心配おかけしました」

 日菜子は頭を下げて、自分のデスクに戻る。

 デスクには返却する資料が置かれていた。まずはそれを片付けてしまおうと手に取
る。

 すると隣の課の一年先輩である脇坂(わきさか)が、追加とばかりに日菜子のデス

クに資料をドサッとおく。

「これも一緒に戻しておいてくれる?」

 さも当り前のように言っているが、当然ながら資料は使ったものが返却することに
なっている。だから日菜子がそれを引き受けなくてはいけないわけではない。

「はい。わかりました」

 けれど素直に返事をする。そんな日菜子に脇坂はわざとらしく思い出したかのよう
に「そうだ」と続けた。