若旦那とさくら
時は江戸。
満開の桜を目当てに花見と洒落込む江戸っ子たちの中にとある大店の若旦那の姿があった。

「やぁ。これは、すごい人だね~」

普段から、おっとりしている若旦那。
賑々しい雰囲気に呑まれるわけでもなく、自由気ままに桜を眺めていた。
いつもならばお付のものがいるはずなのだが、今日は桜見たさに一人、店を抜け出してきたらしい。

「うん。今年も綺麗だね」
風でゆらゆら靡く桜の枝。若旦那は嬉しそうに目を細める。

すると

袖を引く少女の姿が…

「どうしたんだい?おっ母さんやおとっつぁんとはぐれちゃったのかい?」

若旦那はしゃがみこみ努めて優しく少女に問いかける。
それでも少女は俯くばかり。
どうしたものかと、やや途方に暮れる若旦那。
(まいたっね)
だんまりを決め込む少女に幼子の扱いなどまるでわからない若旦那はお手上げ状態だった。
ようやく少女は口を開いた。

「来て」
突然、若旦那の手を引き、駆ける少女。
少女の行動に戸惑うばかりの若旦那。

どこをどう走ったのか、気づけば人っ子一人いない。あるのは小さい社に桜の木1本。

「どうしたんだい?急に走り出して」
「お礼が、したかったの」
「お礼?」
「うん。貴方がこの桜の木を守ってくれた」
「守った?」
お礼?守った?若旦那には思い当たる節はなくただただ混乱した。
少女はくすりと笑う。 
「一体なんだい?謎掛けかなにかかい?」

「ちょうど1年前、貴方はここに来てこの桜を見て言ったの『とても綺麗だ。なんて見事か』って」

頰を薄紅に染めながら少女は続ける。
「私、嬉しかった」

1年前と聞いてそうか、と若旦那は得心した。

確かに1年前、自分はここに来た。
1本だけ静かに凛と佇むその姿に、美しく咲かせる桜の花に息を呑んだのを覚えている。
しかし、それがどうして、お礼と守ったに繋がるのだろうか。
少女は桜の木に掌を当てながら言葉を紡いだ。

「私たち桜も咲き続けるには思いの力が必要なの。人に忘れられた桜は心を閉ざし深い眠りにつく。そして、最期には枯れてしまうの」

若旦那はなんと言っていいのかわからず、じっと少女の言葉に耳を傾ける。

「1年前の私は微睡みかけていた。このまま深い眠りに落ちてもいいと思っていた」
「······っ」
僅かに顔色を変えた若旦那に構わず少女は続ける。
「そんな時、貴方が訪れた。綺麗だと言ってくれた。その一言が私を目覚めさせたの」
少女は若旦那へと振り向き頭を垂れた。
「ありがとう。貴方のおかげでまだまだ咲くことができる」
頭を上げにこりと微笑む。

その瞬間、一陣の風か吹いた。
「うっ」
若旦那は思わず目を閉じ、袂で顔を覆う。

一瞬の出来事。しかし再び目を開けた時には少女の姿はなかった。

若旦那は目の前の桜の木を見上げ可笑しそうにつぶやく。

「わざわざ礼に来るなんて律義だね。次の年も、その次の年もここに来るよ。だから待ってておくれね」

若旦那は一つ息をつき桜に語りかけた。

「今年も綺麗だよ」

まるで返事をするように揺れ動く木の枝が、笑っているようだと若旦那は思った

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