溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
第1章 イタリアの出会い
 一人旅は初めてだった。

 まして海外なんて無謀だと言われた。

「あのさ、ヤケになってるのかも知れないけど、考え直したら? 団体ツアーで一週間とかなら分かるけど、美咲一人で一ヶ月って、無茶だって」

 大学以来の友人遥香にまで止められたけど、でも、私はどうしても行ってみたかったのだ。

 青く澄んだ空の下に広がる地中海の風景が見たくて……。

 大学を卒業後に新卒で入社した会社を、先週退職した。

 三年間勤めたけど、心身共に疲れてしまって、最近では蕁麻疹まで出てしまっていた。

 嫌だったことはいろいろある。

 通勤電車に慣れることができなかった。

 幸い、痴漢の被害にあったことはない。

 でも、息苦しいし、誰かに触られるのではないかと常に警戒してしまう感覚が嫌だった。

 べつに潔癖性というわけではない。

 ぬるりとする吊革につかまったり、誰が使ったか分からない公衆トイレの便座に腰掛けるのも全然平気だ。

 ただやっぱり、あの狭い空間に詰め込まれて身動きが取れなくなると、背中のあたりから毛虫が這い上がってくるようなむずむずとした感触がわき起こってきて、片道約一時間、叫び出さないようにするのに必死だった。

 もちろん、それが異常だという自覚はあった。

 でも、どうしても消えることのない錯覚に悩まされながら通勤を続けていくのも限界だった。

 職場の環境にも問題はあった。

 私はシンプルなライフスタイルを提案する企業の雑貨が好きで、とくにナチュラル素材のボディケア用品を愛用していた。

 念願かなってその企業に就職したときは遥香にもうらやましがられた。

「美咲って、やっぱり運がいいよね。うちらみたいな格下大学であんな有名企業に決まるなんてさ。勝ち組だよ、もう。まぶしくて拝ませてもらうしかないよ」

 そんな遥香は遥香で、地元の市役所に今時正規職員で採用されたものだから、私以上にみんなにうらやましがられていた。

 私の社会人生活だって、期待していたものとはほど遠かった。

 配属先は総務部で、製品の企画どころか、商品に触れることすらない部署だった。

 一部上場企業なのでコンプライアンスにはうるさかったから、いわゆるブラックということはなかったけど、出身大学の学閥だの、出世争いの派閥、複雑な男女関係なんかで、誰かと話をするときは常に背中に刺さる視線を気にしなければならないような雰囲気だった。

「さっき青山さんに呼ばれてたけど、なんだったの?」

「いえべつに。見積書のことで聞かれただけです」

「あら、そうなの。ならいいけど」

 どうでもいいような会話にいちいちトゲが含まれていて、一日が終わって会社を出た瞬間、心臓がずきずきし始めることもあった。

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