きつねさんといっしょ!
 引っ越してすぐに大家の京極夏彦(きょうごく・なつひこ)さんに挨拶して部屋に戻ると、見知らぬ男がポテトチップスを貪っていた。
 私に目撃されたにもかかわらず、男はあぐらをかいたまま食べるのをやめようとしない。
 ちなみにコンソメ味だ。
 男は茶髪で大柄、赤いジャージの上下を着ている。顔はイケメンだけど目つきが恐い。
「……えーと」
 ひょっとして部屋を間違えたのかな?
 私は黒髪のおかっぱ頭を軽く傾げた。おかしいなぁと思いつつも外に出る。部屋番号を確認した。
 背の低い私にとって部屋番号のプレートは頭一つ半高い位置にある。私から見て玄関ドアの隣右上部の壁に埋め込まれていた。
 プラスチック製のプレート、白地に黒い文字。
 202。
 飯塚小梅(いいづか・こうめ)という名前こそないが私の部屋だ。
 私は小さくうなずいて部屋に入る。
 男はまだポテトチップスを食べていた。でも、ほとんど残ってないようだ。
 もちろん、部屋のガラステーブルの上に無造作に置きっ放しにしていた私にも落ち度はあるのかもしれない。しかし、だからといって勝手に人の部屋に上がり込んで楽しみにしていたおやつを食べていいとはとても思えないし、納得いかない。
 とはいえ、こんな思いもある。
 いくら経済的に困っていたにしても家賃一万円の事故物件はまずかったかもしれない……。
 引っ越し当日に不審者に遭遇するなんて。
 私の見ている前で男がポテトチップスの袋を頭の位置まで持ち上げる。
 私は大きな丸い目をさらに大きくさせた。
「あーっ、私のポテチが!」
 その言葉に男がにやりとし、一気に口に流し込む。
 ばりばりと咀嚼する音が部屋に響いた。
 お楽しみのおやつが……三百グラムのお徳用サイズが……。
 男が食べるのをやめる。
 ゲップ。
「ごちそうさん」
 見た目二十代半ばのくせに妙にダンディーな声。渋みのある低い声だ。ショーン・コネリーの吹き替えにでも使えそうだった。
 クシャッとポテトチップスの空の袋を両手で潰す。
「……一口も食べてなかったのにぃ」
「そいつは残念だったな」
 男が空の袋をガラステーブルの上に放り、立ち上がる。
 背が高い。180センチはあるはず。長い茶髪にきつい目つきだけど端正な顔、赤い上下のジャージ、靴下ははいていない。細身だが鍛えられた身体だと何となくわかった。
 昔、テレビでやってた動物番組に出ていた野生の狼を連想する。大自然の生み出した命ある芸術作品だ。
 ……などと思っているうちに男との距離が縮まっていた。
 目の前にはイケメンの顔。
 急に胸の鼓動が激しくなる。
 やだ。
 私、何で不審者にドキドキしているんだろ?
「あ「
 どうにか絞り出した。
「あなた、誰ですか」
「はあ?」
 男が眉をひそめる。
「それはこっちのセリフだ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あの」
 沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。
「ふ、不審者ですよね?」
 自分でも間抜けな質問だと情けなくなる。
 でも、今はこれが限界。
「はぁ? 不審者?」
 男の声が一段上がった。
「俺のどこが不審者なんだ?」
「ひ、人の部屋に勝手に入ってるじゃないですか」
「おいおい」
 男がさらに険しい顔をした。
「あんた、俺を知らないのか」
「知りません」
 即答してやった。
 ちっ。
 舌打ち!
 今、舌打ちした!
「あーもう、めんどくせぇなぁ」
 言うなり男が一歩後ずさる。
 ポンッ。
 男の姿が消えたと思うと、一匹の動物が姿を現した。

 ★★★

 さっきまで男のいた場所に一匹の動物がいる。
 体調は60センチくらいだろうか。毛並みは赤茶色。四肢の先は黒い。顔の中央部とお腹のあたり、そしてふさふさした尾っぽの先から三分の一が白かった。
 とがった耳の内側も白い。
 もふもふ。
 その一語が頭をよぎる。
 反射的に抱っこしたい欲求に襲われるが理性で抑えつける。実行したら間違いなく顔をすりすりしていただろう。
 というかぎゅっとしたまま眠りたい。
 ものすごいヒーリング効果がありそうだ。
「どうした?」
 私が黙っていると目の前の動物が声をかけてきた。
 その可愛らしい姿には似合わぬダンディーな声だ。
「驚きのあまり声も出ないか?」
 違います。
 その言葉を飲み込み、私はうなずく。
 ……本当のことを言ったら怒るだろうなぁ。
「あ、あなた何ですか」
「はぁ?」
 呆れ声。
「あんた、まさかきつねを知らないのか」
 きつね?
 私の頭の中に疑問符がいくつも浮かんだ。それこそフリーマーケットに出品できるならそうしたいぐらいに。
 きつねって化けるんだ。
 もちろん、昔話や民話に登場するきつねはしばしば化ける。そんな話、これまでにどれだけ見聞きしてきただろう。
 でも、これは昔話ではないし民話でもない。
 現実だ。
 私が返事をせずにいるときつねがさらに声のトーンをあげる。
「おいおい、マジかよ」
 きつねが不満げに声を発した。
「あんたどこの出身だ? きつねも知らないなんて」
「きつねは知ってます」
「なら何だ、その反応は」
「普通、きつねは化けませんし、喋りません」
「はあ?」
 きつねの表情が私でもわかるくらい驚いたものになった。
「……あんた、妖怪だよな?」
「妖怪?」
 オウム返しになってしまったけど、疑問符が増えただけだから他に言葉が見つからなくても仕方ない。
 ちっ。
 あ、また舌打ちした!
「マジかよ。信じられねぇなぁ」
 きつねが毒づく。
 ポンッ!
 再びイケメンの姿になると、彼はものすごい形相で私を睨んだ。
「ちょっと待ってろ。いいか、逃げるなよ!」
「は、はい」
 気圧されてついうなずいてしまう。
「絶対に逃げるなよ!」
 念押しし、彼は部屋から飛び出していく。駆け足と金属製のドアが乱暴に開閉するのが聞こえた。
 
 
  
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