再びあなたを愛することが許されるのなら

第3話

梅雨は暗いイメージを持つだろう。しとしと降り続く雨に(あおい)紫陽花(あじさい)の花がしっとりと濡れ、都会の空気が少し浄化された様な感じがするのは僕だけだろうか。
この梅雨が終われば本格的な夏がやってくる。
多分人生の中で本当に自由に出来るのは、この夏が最後だろう。
今年の夏は僕は何をやるべきなんだろう。
残された社会人となるべく階段は、もう後わずかしかない事を僕は感じている。

入院中、とは言っても3日の予定がベッドの空きが足りなくなったと言う事で、軽症の僕は次の日早々に退院させられた。

退院の前にちょっと迷ったが、隣の病室の人に一度お詫びをした方がいいような気がした。
なにせあの大声の宮村の声だ、隣の病室にもかなりの音量で響いたに違いない。
お詫びと言うと何か大袈裟な感じもするが、挨拶だけはしておこう。

有田部長が持ってきてくれた、あのかろうじて生き残った2つのプリンのうち一つを何気なく持っていった。
隣の扉は開かれていた。
僕がいる病室と同じ個室の部屋。
扉側の方だけカーテンで閉められていた。どんな人がいるのかは想像も今はつかない。

ドアの前で少し小さな声で「すみません」と声をかけてみた。
何も反応はなかった。
寝ているんだろうか? 起こしちゃまずいのかなぁ。そう思いながらも少しさっきよりは声を大きくして再度「済みません」と声をかけた。
カーテンが動いた。
「はい」と小さな声と共に、小顔のちょっとあどけない顔がカーテンの隙間からのぞいた。

「どなた?」とくりっとした目が印象的な、高校生くらいなのかなぁ。と、感じさせるような女性(ひと)が顔をのぞかせた。
「いきなり済みません。昨日から隣に入院しているんですけど、昨日うるさくしちゃって、すぐにお詫びに来れなくて済みません。これ本当につまらないものなんですけど、良かったらいかがですか」
と、有田部長のお見舞いのプリンを、つまらないものと言うところは少し気がひけたが、この場合何かいい言葉が出てこなかったのが正直なところだ。
しかもプリン1個だけとは……。残りのもう一個は僕がもう食べてしまっていた。
これでは明らかに手ぶらよりはまだましだと言うのを、訴えているのと同じように感じる。
売店で何か買って来ればよかったな。
なんて思ったがすでにもう遅い。
そんな事を一人考えていると
「プリン?」と、彼女が呟く様に言う。
「あ、えーとプリンです」

カーテンを開け彼女は僕の方にやって来た。
「プリンですか……そんなに気を使わなくても。こちらこそ友達がいきなり文句言って失礼をしたみたいで」
そんな事を口にしながらも彼女の目線は、しっかりとプリンに注がれていた。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」にっこりと微笑む、彼女のその笑顔に何か吸い込まれる思いを感じながらプリンを手渡した。
「また太るぞ! 沙織」
僕の後ろからその声は聞こえて来た。振り向くと確か田嶋と言う名の僕の担当医が、あの眼鏡越しに愛しい視線を彼女に投げかけていた。
「あ、お兄さん。見つかっちゃった」
ちょっと照れ臭そうにするそのしぐさが、どことなく可愛い。
「亜崎さん、ここにいらっしゃったんですか。退院のご挨拶ですか?」
「ええ、まぁそんなところです」
「すみませんねぇ、なんだか追い出す様に退院させるようで」
「いいえ、こちらこそ。おかげさまでもうどこも痛くはないですから」
「そうですかそれは良かった。でも数日はあまり無理をしない様にしてくださいね。それをお伝えしたくて病室にお伺いしたんですけど」
「す、すみません」
「あ、いいえ。いいんですよ。それと沙織、お前も退院だ」
「え、本当。お兄さん」
「ああ、検査の結果は大丈夫だったからな。でも通院は必要だ」
お兄さんって、この田嶋先生の妹さんなのか? あんまり似てはいない様だけど、多分そうなんだろうな。

それにしても少し年の離れた兄妹。
兄はすでに医者として働いている。それにこの子はまだ、高校生くらいだろう。
彼女はどんな病気で入院、検査を受けていたんだろう。
でも先生からは、検査の結果は大丈夫だと言っていた。そんなに重い病気ではないんだろうな。
ふと、あの愛くるしい彼女のその顔を見ながら、そんな事を考えていた。
あんまり他人の事を詮索しても良くないな。それにもう退院しないと。
「そ、それじゃ僕はこれで」
「亜崎さん、すぐに退院なされますか?」
「ええ、出来れば午前中には退院したいと思っています」
「そうですか、ではお帰りの際は一言ステーションの看護師に声をおかけください。退院後の説明がありますので」
「分かりました。それでは済みません」
ちらっと彼女を見ると目が合った。
「プリンありがとうございます」にっこりと微笑む顔はやっぱり可愛い。
「まったくお前と言う奴は、本当にプリン好きだな」
呆れるように田嶋先生は言う。
歳は離れていても仲の良い兄妹だと僕には思えた。

病室に戻り一通りの荷物? と言っても何もないんだが、通学に使っているポータブルリュック一つだけ。それを持ってステーションの看護師さんたちに挨拶に行った。
「お世話になりました」まぁほんの一晩位の入院だったが、それでもいろんなことでお世話になった事は確かだ。
看護師から退院の手続きの説明と、次回の通院の予約のカードを渡された。
「田嶋先生からはお話はお聞きしましたか?」
「先程お会いしました」
「そうですか。それではお大事に」
まぁ、形式じみた感じだったが、それも致し方ないだろう。毎日大勢の患者を診ているんだから、僕みたいな軽症者はさほど重要視もされない。

ただ、もう一度鶴見さんには会いたかった。

美野里に未練が全くないと言えば、それは僕は否定は出来ない。
その気持ちが美野里によく似た鶴見さんに、もう一度会いたいと言う気持ちにさせたのかもしれない。

1階の外来ホールに行くと大勢の患者が受診を待っていた。
僕が住むこの街にある大学病院。
玄関を出ると、病院の中とは違う空気が僕を包み込んだ。
時折雲の隙間から、僕を照らす陽の光が眩しく感じた。でも、僕の躰に一粒二粒と雨が落ち始めていた。
思いもしなかった事故に遇い、一泊の入院。
偶然の悪戯の様に、美野里によく似た人との出会い。

だがもっと運命的な出会いがあったことを、僕はまだその時は知らなかった。
僕の人生がまた、大きく変わろうとしている瞬間だった事を……。

もう、この街も梅雨の時期に入ろうとしていた。
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