【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
番外編 彼女の第一印象とは(Another story)


目の前で一杯のコーヒーと向き合う彼女を見ていた。

己の手で淹れたコーヒーを運ぶなり、待ちわびたかのような恍惚とした表情を見せる。そして最初のひと口を噛み締めるように味わった。間も無く、彼女は笑みを浮かべる。実際は目に見えるほど表情の変化はないが、なんだろう。こう、なんとなく。接客を生業としているからか、感覚で分かる。または、惚れた弱みなのだろう。

「水樹くん、水樹くん、・・・大丈夫?」
「・・・あ、ごめん。」

昔のことを思い出していたからか、ボーッと立ち尽くしていた僕の顔を奈央は心配そうに下から覗き込む。上目遣いをされているみたいで、思わず「可愛い」という言葉が仕事中にも関わらず口から飛び出しそうになったのを抑える。代わりに「考えてごとをしてただけだから、大丈夫だよ」と言うと、彼女は安心したようで「そっか」と再びコーヒーに視線を落とす。本当に彼女は僕ではなく、僕が淹れるコーヒーの方が好きなのではないかと思う。いや、それはそれで嬉しいことなのだが。

コーヒーの香りを全身で感じて、飲んで、うっとりしている奈央を見ていると、また出会った頃の彼女が頭の中に浮かんできた。


***


彼女の第一印象と言えば、泣いている人、だっと思う。

幼い頃からこの喫茶「ベコニア」に足を運んでいたから、初めて来店する人は顔を見ればわかるものだ。あの日、扉を開けて入ってきたのは初めてみる泣いている女性だった。泣いている・・・というか泣いていた、の方が正しいのだろう。

涙の跡が薄暗いこの照明の下でも分かるくらいに、くっきりと残っていた。

カウンターの1番窓際の席に座る彼女に、メニューだけ手渡し待つ事数分。化粧が崩れているその表情からは思い浮かばなかった、透明感のある声で呼ばれる。


注文したのはシンプルにホットコーヒーのみ。


特にコーヒーを淹れるために、特別なことはしていなかったと思う。普通にいつもの器具を準備してお湯を沸かしてコーヒーを入れて下がっていくのを待つだけ。なんら普段と変わらない手法で淹れたコーヒー。

それなのに。

コーヒーをひと口、それだけなのに。彼女の表情は一変した。

綻ぶような笑顔で、目尻を下げて、内側から湧いてくる感動を滲ませたような表情になったのだ。

あの時、僕は目を逸らすことが出来なかった。

僕の入れたコーヒーが、この人を笑顔にさせたんだと。もちろん今までも他のお客さんから幾度となく「美味しい」と言ってもらうことはあった。だけど、彼女のその表情は「美味しい」という言葉以上のものに感じたのだ。

彼女の笑顔は、眠りにつく寸前まで目蓋の裏に焼き付いて離れることがなかった。


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