私の推しはぬこ課長~恋は育成ゲームのようにうまくいきません!~
「あ、おはようご、ざいます……」

 いつもより近い距離感に戸惑い、顎を引いて距離をとってしまった。

「俺も名前で呼んじゃおうかな、愛衣って」

(山田さんはどうして、こんなに積極的になっているんだろう?)

 意味深な低い声で名前を呼び捨てされてしまい、遠慮してくださいとは言いにくい。

「須藤課長は彼女のこと、なんて呼ぶんですか?」

 私の傍に立っていた山田さんが、一歩だけ前に出ながら問いかけた。須藤課長は射すくめる視線を真正面から受けたことにより、気まずそうにまぶたを伏せて目線を受け流す。

「俺は立場的に、雛川さんとしか呼べないですが……」

「会社の外だと『愛衣さん』って、名前で呼んでいたようですけど、それすらも忘れてしまったんですか?」

「雛川さんを名前呼び……」

 その場に立ち尽くした須藤課長は、悲しそうな目で私を見た。次々と明かされる事実に、不安にならない人はいないと思う。

「私は須藤課長のことを、充明くんって呼ばせていただいてました」

「それってまるで――」

「俺と付き合うことになっているので、須藤課長とはなにもありません」

 ぎょっとすることを言い放った山田さん。どんな顔で言ったのかわからないけれど、須藤課長の焦った表情がすべてを物語っていた。

「山田くんと雛川さんが付き合う……」

「ヒツジ、なにも言うなよ」

 否定しようとしたら、松本さんに止められてしまった。振り返ると私たちの様子を自分のデスクから見ている松本さんが、口元に人差し指を当てて、私の言葉を念を押して止める。

(須藤課長の記憶を取り戻すために、わざとやってることなのかな?)

「愛衣とは気が合うし、趣味も似ているから話題に事欠かない。付き合ってもきっとうまくいくと思うんだ。そう思わない?」

「えーっと、ううっ……」

 ふわりと柔らかく微笑みながら、私を見下ろす山田さんの爽やかさに気圧されてしまい、ひきつり笑いをするのがやっとだった。

「愛衣はどんな感じだと付き合いやすい?」

「どんな感じと言われましても――」

「ここで毎日逢うことになるけど、帰ってからも連絡するは絶対するし、デートは月三回以上は約束するよ」

「……雛川さんにそんな義務を押しつけるなんて、かわいそうだと思います」

 須藤課長の唐突な会話の乱入に、ざわついていた心が一瞬でおさまった。それはとても不思議な感覚だった。

「かわいそうなんて言いますけど、須藤課長にそんなこと言う権利はありません。これは俺たちの交際についての話なんです」

「山田くんの義務にがんじがらめにされて、疲弊していく彼女を、黙って見過ごすことなんてできません」

 それまで不安げな顔だった須藤課長が、がらりと一変した。普段見せる厳しい面持ちに、山田さんが微妙に後退りする。

「愛衣が疲弊する前提で、話を進めないでください。そんなことにならないように、愛衣をいたわります」

「本当に好きなら、そんな義務的なことはしません。逢いたいときに逢うでしょうし、連絡するしたいときにすればいいんです。恋愛って、そういうものじゃないでしょうか」

 須藤課長の恋愛論に、山田さんはついに黙った。私はハラハラしながら、ふたりのやり取りを見守っていると。

「おはようさん! 朝からええもの見せてもろぅたわ」

 満面の笑みを浮かべた猿渡さんが、原尾さんと高藤さんを引き連れて、部署に現れた。

「ヒツジちゃん、皆のコーヒー用意してやって。朝から激闘している面々の口の中を落ち着かせなアカン」

「わかりました!」

 緊迫する状況から自然と抜け出せることに、心の底からほっとしたのだった。
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