クールな社長は懐妊妻への過保護な愛を貫きたい
 字が汚くならないよう気を付けながら、婚姻届に名前を記す。
 書き終えてから父に渡し、父の名前も書いてもらった。
 間違いがないか確認してから夏久さんに渡す。

「私はこれからどうするんですか……?」
「俺の妻として生活してもらう。家の心配はしなくていい。……言わなくてもわかるだろうが」

 付け加えられた言葉の意味はわからない。でも、今は聞ける雰囲気ではなかった。

「お義父さんも、こんな形で顔を合わせることになり申し訳ありません。改めて、雪乃さんと結婚させていただきます」

 私とこうして顔を合わせる前に、話を済ませていたのだろう。
 父も不必要に言葉を重ねず、ただ頷いた。

「……ああ」

 夏久さんは父に挨拶を済ませると、婚姻届を手に席を立った。
 私も慌てて立ち上がり、玄関へ向かう後ろ姿を追いかける。

「夏久さん」

 伸ばした手が夏久さんのジャケットの裾に引っかかった。
 あの夜、同じようにして結ばれたことを思い出す。
 でも、同じ瞬間が繰り返されることにはならなかった。

「離してくれ」

 冷たく言われて、手を引っ込める。

「……あのとき、君の手を取らなければよかった」

 その呟きはたぶん、私にしか聞こえなかった。
 人は突き抜けると痛みも苦しみも悲しみも感じなくなるものらしい。悲しい一言に私が感じたのは、深い虚無だった。

 夏久さんが家を出ていく。
 その場にへたり込んだ私を、父がそっと支えてくれた。
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