クールな社長は懐妊妻への過保護な愛を貫きたい
 彼女の目的は結婚だった。
 なにも知らずに過ごしていたあの日、東裕一(あずまゆういち)と名乗る男から連絡が来た。
 娘の雪乃が妊娠し、その相手の名前として自分の名前を出したのだと。

 最初に彼女の名前を聞いて胸が騒いだ。
 ベッドの上でひとり目覚めたとき、なぜと悲しくなったあの疑問を聞くことができる。もう会えないかもしれないと思っていた人に、また会うことができる。
 けれど、彼女の父親に会っていかに自分が楽観的で能天気だったのかを思い知らされた。

「一条家の男が相手なら、雪乃にも不自由はないだろう。私も安心だ」

 面と向かって言われた一言にすっと頭が冷えたのを覚えている。

(結婚して父親を安心させたいと言っていたじゃないか。その相手が“一条夏久”なら……充分すぎる)

 自意識過剰だとは思わない。それだけのものをこの名前は持っている。

(彼女だけは違うと思ったのにな)

 夏久さん、と当たり前のように呼んでくれるあの声がまだ耳に残っている。

(俺が俺じゃなかったら、あのとき呼び止めようとも思わなかったんだろう)

 つきんと胸が痛む。
 自由を求めて飛び出しながら、いつもの癖で門限に慌てていた彼女は――言葉にできないくらいかわいかった。

(……妻なんて思いたくない)

 惹かれた相手は幻想だった。
 それでも、あの夜感じたものが嘘だったと信じたくない。
 人はこの状況を一夜のあやまちと呼ぶのだろう。
 それを認められないのは、騙されていたとわかってなお、彼女が側にいることを喜んでいる自分がいるせい――。
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