私には要も急もある 羽田涼子VS新型ウイルス感染症
「すいません、これは何個まで買えるんですか?」
「いえ、特に制限はございません」
「わかりました。ありがとうございます」

 やった。店員さんからそれを聞き、心の中でガッツポーズをした。スマホを取り出し、結衣に電話をかける。

「見つけたよ。制限はないんだって。そうは言われても買い占めは気が引けるから……九個くらいでいいかな」
「ギリギリ一桁に収めようとする良心? 涼子らしいよね」と結衣が笑いながら言う。
「何かが三回まで許されるとしたら、控えめに一回でやめるよね。でも一回は絶対やる」
「バカにしてます?」
「ごめん、ごめん。せっかく探してくれたのにね。じゃあ、九個でお願い」
「はい、はーい」

 私は通話を切り、カゴを取りに向かった。


 九個もあると重たいものだ。結衣の部屋は六階。わりと新しいマンションなのにエレベーターがない。だから家賃が安いのか。何軒も探し回った末にようやく手に入れた大量のブツをぶら下げ、階段を昇る。今年は暖冬であることも手伝い、汗ばんできた。

「あーもう疲れたぜ」

 六階に到達したと同時にそう口にした。が、言った直後、同じ階の住人だろうか、角を曲がってきた、紫色に髪を染めた中年女性と目が合う。いまのを聞かれてしまっただろうか。恥ずかしくなり、目を伏せて女性の脇を通り抜ける。一人暮らしが何年も続いたからか、ことあるごとに独り言を言うようになった。

「おかえり。ごくろうさん」
「任務完了です」

 結衣が出迎える。今日はまだどこにも出かけていないらしい。<F8>と大きくプリントされたパーカーに、彼女が家用として外では巻かないマフラーを首に引っ掛ける、いつもの部屋着スタイルだ。部屋に上がり、こたつテーブルの上に、合計九個のドーナツが入った二つの袋を置く。

「ほお、これがカンザスドーナツですか」
「ラベルの写真ではどうってことなさそうだけどね。家でも作れそう。でもこれをいま、皆が求めてると」

 私たちはこたつテーブルに積まれたドーナツを眺める。<カンザスドーナツ>はアメリカのカンザス州で生まれたスイーツ。現在、世界的に流行している。プレーンドーナツをレモンシロップにじっくり漬けるのが特徴で、実際のカロリーはともかくシュガーやチョコレートをかけないところがヘルシーなイメージをもたらし、肥満大国アメリカで秋頃からブームとなった。その波は北米に留まらず、南米、欧州、アジア、中東地域にまで広がっている。日本でもこの十二月から本格的に流行りだした。今朝、読んだニュースサイトによると、南アフリカ共和国にも専門店がオープンしたという。

「カンザスって聞くと、ステーキを思い浮かべるけど、それとレモンドーナツとのギャップが面白いよね。あと袋じゃなくて缶詰なのも懐かしい感じ。捨てるのが面倒だけど」
「向こうではレモンが特産品なのかな。さっそく食べよ」と開封しようとした私を結衣が「待って」と制する。
「たぶん我々の経験上、ここで一つ食べると止まらなくなって食べ尽くしてしまう気がする」
「確かに。今夜は茜たちとご飯食べる約束だしね。小学生の頃から何度も同じ過ちを繰り返してるけど、いいかげんに過去から学ばないと」
「そうだよ、私はもう辞めちゃったけど、涼子は来年で大学卒業するんだし。ちゃんとした大人になりなさい。旅行業界は大変だって聞くぞ」と結衣が脅すように言う。
「はい、がんばります。カンザスドーナツはお預けってことで」

 出掛けるまでの間、結衣と他愛のない会話で何気ない夕方を過ごした。

× × ×

「それって訴えてもいいんじゃないの」
「これはもうしょうがないよ。新卒だけの問題じゃなくて、社員さんも減らすみたいだし」
「まあ、そうかもしれないけどさ。私もバイト先の映画館が苦しい状態で、お客さんが隣り合わないように席を一つ空けて、チケットを売ってる。だからキャパの半分しか売れない。どっちみち、来てくれなくなってるから同じようなものだけどね」

 今年に入ってから、新型のウイルス感染症が世界中で猛威を奮っている。日本も例外ではない。本日時点で国内の感染者数は七〇〇人を超え、亡くなった人は二十人以上もいる。国外では十四万人以上が感染し、五千人以上が命を落としたと報道されていた。普通の風邪に似た症状から始まるとされ、飛沫感染、接触感染によって感染すると考えられているらしい。ニュースで見聞きしただけだから、本当のことはよくわからない。私が実際に目で見て理解できているのは社会への影響だ。感染拡大の防止に向けた政府の要請もあり、休校や休業が相次いでいる。イベントは軒並み自粛。観光業をはじめとした多くの業種が経済的な打撃を受けた。私が内定をもらっていた旅行会社も連日のキャンセルと新規申込の激減により経営が逼迫、遂には内定を取り消されてしまった。大学の卒業式も中止となったものの、結衣が退学してからは面白くない大学生活だったから、それは特に何とも思わなかったが。

「にしても人減ったよね。このカフェもいつもは混んでて、座りにくいカウンター席しか案内されないのに、今日は四人掛けのテーブルを私ら二人で使っちゃってるし」と結衣が言う。私たちは土曜のランチタイムにも関わらず閑散としたカフェにいる。
「『不要不急の外出は控えて』って言うけど、基準がわかんないよね。私は年末でバイトを辞めたし、大学も卒業するし、そういう意味では一切外に出なくてもいいのかな。買い物くらいか」
「必要な物は買えてる? マスクもしてないし」
「うん。私の意識が低いのかもしれないけど、なんか別にいいかなって。結衣はちゃんとしてるよね」

 最近は外でしか結衣と会っていないから、食事をするとき以外はマスク姿の彼女しか見ていない。

「こっちは接客商売だからさ。気をつけないと。この状況でも来てくれるお客さんが本当にありがたいよ」
「マスクはいいとしてもトイレットペーパーとティッシュが不足してるのは不安だな。去年から花粉症にやられちゃったから、ちょうど時期だしね」
「花粉症の世界にようこそ」と結衣が両手を広げて、イヤミっぽく言う。映画ファンの彼女は恋愛ものよりアクション系を好む。その影響からか辛口の冗談をよく口にするが、侮辱や差別的な発言は決してしない。<F8>とプリントされた愛用の部屋着パーカーは『ワイルド・スピード』シリーズのグッズらしい。勧められて適当に一本だけ見たが、主人公は結衣が言っていた逞しい大男ではなく、ひょろひょろした高校生だった。日本が舞台の変な映画で、ナンパ男がチョコレートで日本人女性を引っ掛けようとするシーンだけはくだらなくてよく覚えている。あとで聞いたところによると、私が見た作品は番外編だったそうだ。

「あと一週間くらいはもつかな。そろそろ仕入れないと」
「テレビでは政府が『足りてる』と言ってるけど、実際無いからね。買い占めてんだよ、皆が」
「そういえば、バイトの時間大丈夫?」
「ヤバっ。シフト始まっちゃう。じゃあ、また連絡するから。不要不急の無職はまっすぐ家に帰るんだよ!」と毒づきながら結衣は店を出て行く。

「うわ、本当にない」と心の中でつぶやいた。帰宅する途中、行きつけのスーパーに寄ったが、トイレットペーパーとティッシュのコーナーはスッカスカの空だった。この状況はかなり前から続いていたのだろう。一月にたまたま、安売りセールでまとめ買いをしていたから気にもせず、紙類のコーナーを通ることもなかった。現実に空の棚を目にした瞬間、一気に不安が押し寄せた。内定取り消しは、まだ自分に就職経験がないからか、喪失感はなく、素直に諦めがついた。だが、いつも手に入れていた生活用品がいつもある場所に無い。これがもたらすショックは大きい。周辺のドラッグストアやコンビニを回るも当然無い。

 帰宅し、残量を確かめる。トイレットペーパーは残り三個と半分。ティッシュは未開封が一箱のみ。もっとあったはずなのに。夕方のニュース番組では、もちろんウイルスの状況をトップに扱っている。感染者数、死者数、一斉休校、ウイルス倒産、有名俳優が感染、大統領も感染、クラスター、パンデミック、非常事態宣言……テレビを消した。気が滅入る。私はバカだ。世の中がこんなことになっているとわかっていたのに、何もわかっていなかった。それが今日、スーパーにトイレットペーパーとティッシュがないことを目にしてようやく理解できた。気分転換に、未読で置いてあった漫画を読もうとしたが、まったく頭に入らない。それからネットでウイルスの感染状況や社会影響をひたすら調べた。調べるほどに不安が増すが、自分を取り巻く状況を把握しなければ。どうせ無職だ、時間はある。

 気づけば深夜を回っていた。いまの状況が続けば私はどうなってしまうんだろう。とりあえず何かバイトを探せばいいやくらいに思っていた自分の愚かさに、今更ながら呆れる。実家に戻ろうか。だが、せっかく学費を出してもらって卒業した直後に戻ることには気が引けた。お父さんとお母さんのことは心配だから、一応、実家には明日電話してみよう。まずやるべきことは日用品の確保だ。

 寝不足と花粉症で重たい瞼を指で擦りつつ開店を待つ。暖冬でも朝は寒い。スーパーが開く七時より一時間前に行ったのに、もうすでに行列ができていた。年配が多かったが、自分のような若者の姿も目につく。

「開店は七時です! お寒い中、申し訳ございませんが、あと二十分ほどお待ちください! また品薄により、マスク、トイレットペーパー、ティッシュはお一人様、合計で一つまでとさせていただきます!」と店長さんらしき男性が声を張ってアナウンスする。

 今日は私もマスクをしている。部屋を引っ掻き回したら、去年風邪を引いたときに買ったマスクが出てきたのだ。十枚もあったから心強い。今日、マスクの確保は難しいだろう。目指すはトイレットペーパーとティッシュだ。店によっては、整理券を配るところもあるらしいが、ここでは導入していない。開店と同時に争奪戦だ。気を引き締めなければ。

 扉が開いた。通い慣れた店だが、開店の瞬間を見るのは初めてだ。
「押さないでください! 落ち着いて行動してください!」と店員さんたちが叫ぶ。誰も聞いていない。皆、雪崩れ込んでいく。こういうのは新年の福袋セールで何度も経験済みだが、違うのは皆の表情。笑顔はなく、焦りの色しかない。自分も同じだろう。後ろから突き飛ばされるように入店した私は目指すべきコーナーへ向かった。

「うん、今日の朝から並んでなんとか買えたよ。だから大丈夫。そっちも余裕はないんでしょ。送ってこなくていいから。仕事のことも心配しないで。前のバイト先に戻れるかもしれないし。あそこはオンラインゲームのカスタマー部だから、ウイルスの企業影響もあまりないんだって。お父さんにもよろしく言っておいて。じゃあね」

 戦利品を前にお母さんと電話で話した。向こうでも品薄だと言っていた。それに、こっちよりも向こうのほうが感染者数が多く、学校はほとんど休校らしい。パートで専門学校の事務職に就くお母さんも休校のために自宅待機を余儀なくされている。とはいえ、両親が健康だと知ってほっとした。そして、目の前の獲得物。トイレットペーパー十二ロールとティッシュは大きめの四〇〇枚入り一箱。足を踏まれ、肩を掴まれした戦いの末、手に入れた。これらを眺めるだけで安心できる。


「発表によると、市内在住の二十代女性。海外渡航歴はなく、勤務先の映画館に六日まで勤務していたということです。なお、女性は軽症。映画館は感染が判明した翌日より臨時休館中と運営会社が発表しました。これで県内の感染者は五十七人になりました」

 結衣が感染した。それを聞いたとき、立っていられなくなり、駅のホームでへたり込んだ。心配そうに周囲の人たちが駆け寄る。私は立ち上がり、改札を出てから、貯金も少ないのにタクシーで帰宅した。とても歩いて帰れる自信がなかった。
 なぜ? どうして? 結衣がなんで? 理解が追いつかない。マスクをして、手洗いや消毒も欠かさないと言っていたのに。誰からどう感染したのか。
 テーブルの上には卓上鏡がある。そこに写った私は片手を額に当てていた。自分も感染したのかと不安になったのだろう、考えるより先に手が動いていた。自己嫌悪に陥る。もしかしたら私がうつしたかもしれないじゃないか。それなのに、自分がうつされたかもしれないと先に疑ったのだ。最低だと思った。念のために検温したが、平熱だった。花粉症によるくしゃみ以外に自覚症状もない。それでも自分への嫌悪感はぬぐえなかった。

 結衣は指定の医療機関に入院中だ。私は症状はないけれど、濃厚接触者として十四日間の自宅待機を要請され、指示に従っている。無職だから何も影響はない。トイレットペーパーは十分あるからもつだろうし、ティッシュがなくなっても代用できる。両親に心配をかけることは心苦しかったが、それ以上に辛いのは結衣とのやりとりだ。決められた時間しか許されないから、いつでもとはいかないが、連絡を取り合っている。彼女は謝罪の言葉を何度も口にした。

「ごめんね、本当にごめん」
「謝らなくていいよ。私は何ともないんだし、結衣の方こそ軽症でよかった」
「うん、ずっと隔離されてるだけだよ」
「ちゃんとご飯は食べてる? なんかお母さんみたいなこと言っちゃった」

 私と同郷の結衣も両親からは遠く離れて暮らしている。

「免疫力をつけるために食べるのが仕事になってるよ。動いてないから食欲ないんだけどさ」
「早く元気になって。そうだ、『ワイルド・スピード』の新作やるんでしょ。退院したら一緒に見に行こう」
「あれはウイルスの影響で公開延期になったんだよ」
「……そうなんだ。なら、過去作でもいいから。私は変な番外編しか見てないんで、1、2を見て、3は飛ばして、4から8までをDVDで一気見しよう。ホームシアターでさ」
「二作目もヴィン・ディーゼルが出てないから見なくていいよ。あ、でもポール・ウォーカーは涼子は好きになりそう」
「よくわかんないけど、じゃあそのポール目当てで見るよ。ファンになったりして」
「その俳優、死んじゃったんだけどね、事故で……」
 しまったと後悔したがもう遅い。こんなときの話題選びに私はいつも失敗する。今回もまた。
「ああ、ごめん。気にしないで。私こそ余計なこと言っちゃったね。うん、退院したら映画見よう」

 自宅待機が解除されても出歩く用はなく、買い物と食事以外は家にいた。あり余る時間はスマホのゲームに費やした。こういうとき、家で独りで没頭できるゲームの存在はありがたい。ゲームの利用時間を規制する条例案には反対だ。時間の過ごし方の多様性は認めてほしい。
 一度、結衣の働く映画館に行ってみたが、休館中のままだった。彼女が退院したときには再開しているのだろうか。感染は拡大し続け、今日も海外の有名なスポーツ選手が感染したとか、生活必需品以外の全店が休業になった国のこととか、マスクの転売が禁止されたりだとか暗いニュースばかりを見聞きする。茜たちに連絡してみると、自宅待機の解除を喜んでくれたが、会おうとは言ってこず、こちらも黙っていた。気持ちはわかる。

 私の自宅待機解除から数日後、結衣が退院した。軽症と聞いていたが、本当は入院中にかなりの咳で苦しみ、寝られない日も続いていたらしい。病院で処方された薬で改善し、その後、陰性が確認されたそうだ。退院したことをメッセージで受け取った私はすぐさま結衣のマンションを訪ねた。が、インターホンを押しても反応がない。スマホからメッセージを送る。返事はすぐに来た。「頭が痛いから寝る」とだけ書いてあった。今度は電話をかける。二十秒を過ぎたくらいで繋がった。

「返事読んだでしょ。頭痛がするの」結衣は明らかに不機嫌だ。
「うん、ごめん。でも、中に入れてよ。ちょっとでいいから話そうよ。長居はしないから」
「いま話してるじゃん」
「違くて、ちゃんと、顔を合わせて」
「会わないほうがいいんだって」

 私だけじゃなく、たぶん人と会うこと自体を避けているのだろう。帰るべきかもしれない。それでも私は会いたかった。

「じゃあ、しばらくこのまま話そうよ。もう陰性なんだよね。映画館が再開したら、仕事にも復帰できるんじゃない?」
「辞めたよ」
「え?」
「私のせいで休館しちゃって。消毒もちゃんとしたんだけど、劇場にクレームが多くて、再開できてない。支配人は気にするなって言ってくれたよ。でも、研修のときからお世話になってた先輩からメッセージがあって。『お前のせいだ』って」
「ひどい! 結衣は何も悪くないのに」
「仕事で失敗しても、なじることのない先輩で、尊敬してたのに……」

 結衣の言葉が途切れる。

「結衣? 大丈夫?」

 彼女のすすり泣く声が聞こえる。

「それで、支配人に退職することを伝えたんだ」
「引き止められたんだよね?」
「……何も言わなかった」

 かぼそく言う彼女に対して、かける言葉が見つからない。私も前のバイト先に電話した際、雇ってくれそうな感触があったものの、濃厚接触者として自宅待機になったことを正直に伝えた翌日、断りの連絡が来た。もちろん、こんなことは結衣には話せない。さらに罪悪感を持たせてしまう。

「だから、もういいんだって。不要不急の無職はずっと引き篭ってるよ」と自虐的に言う結衣に私はとっさに、
「私には要も急もあるよ」と言った。
「……何言ってんの?」
「私が急いでここに来たのは、結衣が必要だからだよ」
「ちょっと、そういうのいいから、やめて。映画でもそっち系のジャンルは好きじゃないし」
「家にね、トイレットペーパーとティッシュが残りわずかになったとき、すっごい不安になった。翌日、朝からスーパーに並んでなんとか手に入れた物を自宅に持ち帰って、それを見てたら安心できたんだ。私は夢とかないし、情熱を注げる趣味もない。旅行会社の内定も正社員として就職したかっただけ。そのほうが安定してるし、両親も安心させられるから」
「何が言いたいのか、さっぱりなんだけど」
「だから、結衣と一緒にいることは私にとって安心なの」
「トイレットペーパーみたいに?」と返してくる結衣。電話の向こうから微かに笑いが漏れるのを聞いた。
「あ、いや、そうじゃなくて。そうじゃなくもないんだけど。何言ってんだろ。とにかく、私が安心したいから顔を見せて。私のわがまま聞いてよ」

 沈黙が続く。私の言っていることは支離滅裂だ。言いたいことの半分も言葉にできていない。だが、たいてい結衣は私の言わんとすることを汲み取ってくれる。今回もきっと伝わったはず。

「涼子の言いたいことはわかったよ。だけど、こっちのわがままも聞いてくれるかな。私は何も要らないんだ。トイレットペーパーとティッシュもさっきどっちも切れちゃったけど構わない。テレビでバカなコメンテーターが新聞紙を使えとか言ってて、そのとおりだと思うよ。家に新聞は無いから映画のチラシでも使おうかな。私は映画にとって要らない存在みたいだし。あ、でもチラシはツルツルして使いづらいかも。フリーペーパーなら大丈夫そう」
「なんでそんなこと言うの……」

 泣きたくなってきた。そんな冗談は聞きたくないよ。

「あと陰性って言ってもね、また陽性になることもあるんだって。小康状態ってわかる? そこからまた再発する可能性もあるんだよ」
「そのときはまた治療して……」
「なんかもう疲れた。隔離されるのってきっついよ。今度、再発したらどうしようかな。街に出て、色んな人と触れ合ってウイルス撒いちゃおうか」
「バカなこと言わないで!」

 私は語気を強めて言った。結衣への説教のためではない。普通に腹が立ったのだ。

「そんなキャラじゃないよね! 去年、一緒に『ジョーカー』を見に行ったときのこと、覚えてる? 私が主人公の気持ちがなんとなくわかるかもって言ったら、あんたは『まったく理解できない。メソメソしすぎ。世の中恨みすぎ』って一蹴したんだよ。カチンときたから記憶してる」
「それは……」
「いまの結衣はジョーカーと同じだよ。映画のジョーカーは好きだけど、病的なジョークを言うあんたは好きじゃない!」

 結衣のことを<あんた>と呼ぶのは何年ぶりだろうか。中学の頃に大ゲンカして以来かもしれない。

「自分のことを要らないとか、そういうのはもうやめよ?」

 結衣は何も答えず、私も黙っている。しばらくして、結衣が口を開いた。

「怒らせちゃったかな、菩薩の涼子を。謝るよ」
「こっちこそわめいちゃった。近所迷惑だったね。ところで、何も要らないって言ってたけど、食べ物は要るでしょ? 何か買って来ようか」
「迷惑じゃなければお願いしてもいい?」
「はい、はーい。トイレットペーパーとティッシュも調達してくるね」
「うん、健闘を祈る」
「任務に行ってまいります!」と言って私は通話を終了した。


 家にはまだロールが四つはあったと思う。ティッシュは箱が軽かったからあと少しか。電車に乗る間、残りがどれだけあるのかを思い返した。早く結衣に届けたい。それでほんのわずかでも、彼女が安心してくれるなら。

「なにこれ……」

 目の前の光景が信じられなかった。トイレの個室が水浸しになっていた。床に置いといたトイレットペーパーもグショグショで使い物にならない。管理人さんからの説明によると、上の階で水道管の漏れがあり、真下にあるこちらまで水が落ちてきたという。水漏れでダメになったカーペット等は弁償すると言ってくれたが、そんなものはどうだっていい。トイレットペーパーだけを返してほしかったが、それは言う気になれなかった。

 私は走っていた。入手できそうな場所をネットで調べていると、なんと結衣のマンションからそう遠くない場所にある大型のドラッグストアで、棚に並べ始めているとのSNS投稿を見つけたのだ。夕方に並べることもあるのか。投稿は三十分前だ。最寄り駅から全速力で駆け出した。家のトイレットペーパーはダメになったし、まだ残りがあると思ったティッシュはもう空だった。店に入荷した数はわからないが、サイトで見た画像ではかなり広い店舗だったから期待できる。入荷に気づいた人が少なければまだチャンスはある。

 店に着いたときは息が切れる寸前だった。求める物の場所は探すまでもなかった。奥の一角で騒ぎが起きていたのだ。状況はよく呑み込めないが、どうやら販売開始のタイミングを巡って店側と客の間で一悶着あり、それはいまも続いているようだ。棚には上から下まで何十というロールのパックやティッシュ箱が詰め込まれている。いまから列を作ったり、整理券を配るわけにもいかないのだろう、責任者と思われるネクタイ姿の男性は困り顔だ。周囲にいる店員さんたちは、棚に手を伸ばそうとする客たちを押し戻すように制する。一触即発。張り詰めた空気。恐い。マスクならまだわかるけど、お尻を拭いたり、鼻をかんだりするものだよ? おかしいよ。もちろん自分だってそれを求めてやって来た一人だけど……。

「早く売れよ!」と誰かが叫ぶ。その声をきっかけに他の客たちも大声を出し始める。中には店員さんたちに向かって聞くに堪えない言葉を浴びせる人もいる。ふと、大学のゼミで一緒だった渡瀬君のことを思い出した。彼は確かドラッグストアでバイトをしていると言っていた。彼も今頃、このような状況で苦闘中なのかもしれない。

 口火を切ったのは紫色の髪をした中年女性だった。彼女は棚の前に立つ店員さんたちを押しのけてトイレットペーパーのパックを掴み出した。他の客も続けとばかりに殺到する。
「やめてください! 危ないですから!」と悲痛に訴える店員さんの声が空しく響いた。
 そのとき、私の中で何かのスイッチが入った。詰め掛ける他の客らと同じように、自分も渦の中に飛び込んだ。周囲の客を掻き分けて棚へ突き進む。私の頭にあったのは結衣のことだけ。独りで苦しむ彼女を少しでも安心させたい。ジョーカーみたいになってしまいそうなあの子を、ほんのちょっとの安心で救えるかもしれないんだ。あなたたちとは目的が違う。私にはもっと大事な理由がある。だからお願い、私に買わせて。

 私はうずくまっていた。髪留めはどこかへ飛ばされ、誰かに強く引っ張られたのだろう、ダウンジャケットの袖が破れている。棚はすべて空で、客たちは皆、レジへ向かっていた。私は両手でトイレットペーパーの六ロール入りパックを大事に抱えていた。必死になって手に入れたトイレットペーパー。「何やってるんだろう」と小さくつぶやいた。
 立ち上がって横を見ると、片付けをする店員さんに、小学校低学年くらいの女の子を連れた女性が話しかけていた。

「もう売り切れてしまいました。申し訳ありません」
「そうですか、残念です」
「せっかく来ていただいたのに、すみません」
「気にしないでください」

 あの親子らしき二人もどこかで情報を得たのだろうか。遅かったようだ。いや、よかったのかもしれない。子供にさっきの大人たちの醜態を見せなくて済んだのだから。

「ここにもなかった!」となんだか楽しそうに両手を挙げる女の子。
「また他を探しに行こうね」
「どこかにあるといいな!」

 私の前を通り過ぎ、出口へ向かおうとする二人を見て胸が痛んだ。一瞬迷ったが、決心して女性に声をかけた。

「あの、すみません」
「はい?」
「えっと、よかったらこれ、お譲りします」
「そんな、いいんですよ。あなたも苦労して手に入れたようですし」
「ああ、いや、大丈夫です。最近、便秘気味だし。あ、ごめんなさい。下品ですね。とにかく、小さい子もお連れですし、必要でしょう。本当に私は平気ですんで」
「それなら、お言葉に甘えて」

 女性にロールのパックを手渡す。

「ありがとう!」と女の子がお礼を言う。
「どういたしまして」

 レジへ向かう二人を見送った私は食料品のコーナーに行った。日持ちしそうなものをあれこれと選んでカゴへ入れる。お菓子も買おうと売り場を覗くと、ある物が目に入った。カンザスドーナツだった。ほぼ誰も手をつけていないようで、山積みになっている。昨年末もここで買って結衣の家に行ったことを思い出す。結局、いまだに食べていない。彼女はもう食べたのだろうか。結衣の家にまだ余っている可能性も考えつつ、カンザスドーナツの缶詰二つを手に取った。

 店を出る際、入り口近くにいた、責任者であろうネクタイ姿の男性に謝罪した。

「気にしないでください。こういう状況ですから。仕方ないですよ」
「そんな気はなかったんですけど、なぜかあのときは……」
「お客さんは良い方です。さっき、見てしまったんですが、子供連れの女性に譲ってくださったでしょう」
「見られてたんですね、恥ずかしい」
「すみません」
 二人して苦笑いした。
「それじゃあ、私はこれで。がんばってください」
「お客さんもお気をつけて」

 男性に会釈をして、私は外へ出て行った。
 

「ボロボロじゃない! どうしたの?」
「任務失敗しました……」
「お、おう。とにかく入りなよ」
「うん」

 汚れたスニーカーを脱いで、結衣の部屋に上がった。買って来た食料品を床に置いたと同時にどっと疲労が襲いかかり、壁にもたれて座り込んだ。向かいの姿見に映る自分の姿はさながら負傷兵だ。

「何があったの?」と結衣が不安気な表情で聞いてくる。
「いや、ちょっと。マラソンの集団にぶつかっちゃって」
「さすがにそのウソはないわー。しかも、このご時世に」と結衣は苦笑しつつツッコミを入れた。よかった。やっぱり、この子はタフだ。とはいえ、髪はボサボサでメイクなどしておらず、大事にしていたはずの<F8>パーカーには醤油か何かをこぼしたシミが残っている。部屋も散らかり放題だ。
「変に誤魔化すのもあれだから正直に言うね。スーパーでトイレットペーパーとティッシュが入荷するところだったから挑戦したんだけど、お客さんが殺到してもみくちゃにされちゃった」
「私のためにそこまでしてくれたの?」
「気にしないでいいから。結局、手に入らなかったし」

 現場の醜い混乱のことは黙っていた。結衣に心配をかけたくないことが一番の理由だが、自分が晒した醜態を知られたくなかったことも私の口をつぐませた。

「そこまでしてくれたことが嬉しいよ。ありがとう。食べ物もたくさん」
「簡単に調理できるものとか、いろいろ買ったよ。そうそう、これも買っちゃった」と私は缶詰をこたつテーブルの上に置く。
「あ! ドーナツ! 完全に忘れてた!」

 結衣は急に立ち上がると台所へ行き、大量の缶詰を持って来た。それらもカンザスドーナツだった。

「それって、もしかしたら年末に私が買って来たやつ?」
「あの日は結局食べなかったでしょ。で、仕舞ったままずっと存在を忘れてたんだ。涼子も何も言ってこなかったし」
「実は私も忘れてた。買い占めるように買ったくせにね」
「じゃあ、今日お互いに初めて食するとしますか」
「はい、そうしましょう!」

 結衣はコーヒーを淹れに立ち、私は少しの間、目を閉じて横になる。


「起きて、起きてよ涼子。コーヒーが冷めちゃうから」

 結衣に起こされ、目を覚ます。一、二時間は寝ていたように感じるが、実際は十分かそこらしか経っていないみたいだ。

「ごめん、眠りに落ちてしまった」
「戦い疲れた戦士って感じだったよ」
「なんか恥ずかしいな。コーヒー淹れてくれてありがと」

 私は缶詰のフタを開けた。開け切る途中からレモンの甘い香りが鼻に吸い込まれていく。食べる前から糖分を摂取した気になる。

「これ、ラベルで損してるよ。実物のほうが遥かに美味しそうだもん」と結衣がにこやかに言った。
「この香りだけでクラクラする」
「カンザスが産んだ、ベストセラードーナツをようやくご賞味するときが来たね」

 結衣のその言葉を聞き、カンザスの人たちもウイルスで苦しんでいるのだろうかと考えてしまった。新しい名物を開発したのに、生産にも悪影響が出ていたとしたら。

「涼子? 大丈夫?」と結衣が言う。険しい顔でもしていたのだろうか。考えたことを口にしようかと思ったが、留まった。いまはウイルスの話はしたくない。
「なんでもないよ。食べよう」
 
 ドーナツは本当に美味しかった。レモンが染み込んでやや水気のあるところはパイみたいだし、それでいてふっくらしたパンケーキの食感もある。チョコやシュガーの装飾がないから、重たい印象がなく、何個食べても罪悪感が少ない。罪なスイーツだ。

「二人で合計八個も食べちゃったよ。最初は『マズっ』とか言ってやろうかなくらいの気持ちだったけど、一口食べたあとは、もうずっと無心で」
「食べてる間、まともな会話はなかったね。二人共、『美味しい、美味しい』って独り言みたいに言ってただけ」
「美味しいものの前では、余計な言葉は要らないんだよ。味わうだけでいいんだ」

 結衣の言うとおりだ。一番の友達と共に美味しいものを味わう。これ以上の幸せが他にあるだろうか。これから世の中がどうなるのかはわからない。今朝のニュースでは、電車の中で咳をしたことに端を発する乗客同士のトラブルで傷害事件が起きたと伝えていた。欧州では外出禁止令が出された国もある。感染者数、死亡者数は増加する一方だ。私は職もないし、資格や能力もない。共働きの実家もお母さんが働けない状況だから、家計は苦しいだろう。親を頼るわけにもいかない。私はこの先、どうにかなるかもしれないし、もうどうにもならないかもしれない。それでも、いまは幸せだ。目の前には結衣がいる。甘いドーナツと温かいコーヒーがある。いまのこの穏やかな気持ちの記憶を忘れなければ、大丈夫だ。

「あーあ、早く普通のいつもの生活に戻りたいな」

 しばしの休息(戦いは続く)

× × ×

 あとがき

 この短編小説は、二〇二〇年三月一八日から一九日の二日間をかけて、日本在住の私が書いたものです。いま、私たちが置かれている状況を思い、小説という形で気持ちを吐き出したくなり、急に思い立って、勢いで書きました。登場人物は架空ですが、自分の体験や見聞きして感じたことを投影したつもりです。映画の小ネタが多いのは、単純に私が映画好きだからです(私自身は『ワイルド・スピード』の三作目も好きです。チョコレートのシーンは笑ってしまいましたが)。

 非常に稚拙な作品です。小説と呼べるものかもわかりません。特に何かを強く訴えたいわけではありません。本作をお読みいただき、一つの読み物としてわずかのお時間でもお楽しみいただけたら、とても嬉しく思います。そして、こんなことを言うのは大変おこがましいですが、もし本作が何らかの行動のきっかけとなれば、これ以上のことはございません。それは、皆さんなりの表現行動であったり、品物の譲り合いだったり、周囲の人への優しさであったり、どこかへのご寄付だったり、日々の仕事や家事や勉強により一層打ち込むことであったり、日常の幸せをかみしめることだったり、様々です。そのどれもが皆さんにとっての、この世界的困難への戦い方だと思います。自粛や避難も、あるいはそうしないことも、すべてご自身で深く熟考された末の決断であれば、私はそれを支持します。

最後に、私が好きな映画から、ある台詞を引用させていただきます。

「よーく考えろ。そして、どうにでも好きなようにすればいい」

 二〇二〇年三月 日本のとある街より
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