桐島藍子の記憶探訪 Act2.夏
 自身が作家であることは何となく覚えていて、けれどもそのペンネームが”霧島愛”であるとは覚えていなくて。
 幾ら説明しようとも、幾らその証拠を提示しようとも、全く思い出す素振りはない。
 パズルのピースが合わない様子を見ていると、こちらのほうも 心が痛くなってきて。

 本来なら、地元に帰って次回作の取材旅行を敢行している頃合いであるだけに、何か一つアクションを起こさなければ——そう思っていたところ、何気ない日常の一コマで、海外旅行に対する憧れ、という話が出た。

 それが良い刺激になれば。
 それで何か変われば。
 あるいはそれと共存出来れば——

 そんな願いが届いたか否か、ならば海外旅行に行こうかという話になった。

 桐島さんが図書館を使うと判断する基準は、自身の思い出せる記憶部分に目の前の情報がない時。
 人よりずば抜けて記憶力が良いとは言っても、結局は思い出せないことの方が多い、同じ人間だ。
 図書館に頼る機会は、多いとみて間違いない。

 そう考えると、僕は言い知れない寒気を覚えた。

 桐島藍子という人物はこれまで、一体どれだけの記憶を、人の為に失って来たというのだろうか。

 誰とも知らない他人の為。
 誰と知ったところで日の浅い他人の為。
 
 どれだけの記憶を鍵として使い、どれだけの人を助けて来たというのだろう。

 そう思い至ってしまった瞬間、心が痛くなった。

 自己犠牲の精神を否定するつもりはない。
 特撮のヒーローやアニメの主人公なんかに対する憧れも、人並みにはある。

 けれども——

 フィクションの内なら、傷なんかは簡単に癒えて、記憶を失ったとてハッピーエンドになることもあって。
 現状、桐島さんがそうなるビジョンはない。
 彼女自身が、毎日毎日難しい顔をして唸っているのが、良い証拠だ。

 それなのに。

「神前さん、海外旅行の準備は出来ていますか?」

「いよいよあと数日に迫ってきましたよ、海外! 葵さん、体調の方はどうですか?」

「ヴェネツィアは、神前さんの憧れの地だというお話でしたよね。また、色々と聞きたいです」

「神前さん——」

「葵さん——」

 垣間見える神妙な顔つきは、決まって僕が盗み見ている時だけ。
 会話や来客、接客中にそれを見せることは、一度たりともない。
 どころか、以前よりも努めて明るく、また冷静に振舞う。

 傍から見れば、それは彼女の本質なのだろうけれど、僕には——

 せめて、遠い異国の地では、それを忘れて過ごして欲しい。

 どうか——どうか、図書館の鍵を開けずに済んで欲しい。

 ただそれだけを願って。
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