シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
プロローグ

 バンコクの郊外。今、サクチャイは、くりぬかれた寺院の壁に収められる父の骨壺を眺めながら、膝が震えるのを止められなかった。自分の人生は、およそ彼の名前の由来である勝利とはかけ離れた敗北だらけの人生であった。そのうっ憤で、家族、特に父にあたって迷惑をかけたかもしれない。しかし、最低限ブッダの教えは守っていたつもりだった。
 彼の家は裕福ではなかったので、亡くなった父の葬式は3日間しか執り行うことができなかった。最終日に火葬となる前夜、見知らぬ男がやってきて、父の体の一部を売ってほしいと申し出てきた。
その提示された金額に、彼はその邪悪な申し出を退けることができなかった。どうせ火葬されば灰になってしまうのだ。彼はそう自分に言い聞かせて、遺体の一部を凌辱するような行為に素直に応じてしまった。
火葬を終え、遺骨を納めた壁に蓋をし、モルタルで塗り固める作業を眺めながら、ついに彼は我慢の限界に達し、人目はばからず泣き始めた。周りの参列者は、父親との惜別の涙なのだろうと考えたが、サクチャイの涙はそんな生易しいものではなかった。腹の底から恐怖を感じていたのだ。
自分が犯した罪は、もう贖うことはできない。数年後に壁から父の遺骨を取り出して、散骨している自分など想像できなかった。漆黒の闇の奥から、ヤック(夜叉)が自分を喰らいにやってくる。もしかしたらそれは今夜かもしれない。自分は想像を絶する痛みの中で、ヤックの鋭い牙で切り刻まれ死ぬのだ。そして、何度生まれ変わろうとも、必ず自分を喰らいにヤックが現れるに違いない。その恐怖と痛みが永遠に続く来世が、彼を待ち受けているのだ。


〈九龍城砦〉

 香港の夜の闇の中を歩くふたつの人影。一つの影は、もう一つの影をさらに深い闇へと導く。先導するのは痩せこけた男。想像もしたくないが、この男はとても悲惨な少年時代を送ったにちがいない。導かれている纐纈モエにはそれが分かった。

 彼女は眼科医、それも間もなく60に届こうとしているベテランだ。仕事がら、数多くの患者の瞳をのぞき込んでいるうちに、瞳の奥にある光でその人の性格や生い立ちが想像できるようになっていた。
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