言い訳の旅
「人は何故生きるのか」と、誰もが一度は思う。
私にとって、それは言い訳の旅だ。あぁ、私の呪われた人生よ。あぁ、なんと哀れな私だ…と。
大病と闘う者の中で、生きられない命が幾つも幾つもあり、心裂かれるほどの別れもまた幾つかあり、その中で私がこんなにも痛い思いをしつつ生かされたには意味があるのだと思わなければ、前に一歩も進めなかった。私があの大事故の中、後遺症を残してでも生き延びたには、きっと何か定めがあると考えなければ、頑張る気力が湧かなかった。それを全て神様のご意志にした時、私は胸の痛みごと全て投げ打ってしまえばよかったのだ。理由はともあれ、不完全である身体も弱い心も創られたのは神様なのだと放ってしまえばよかったのだろう。それでも私は、ただ命を救ってくださった神様に報いることだけを考え、目の前の母が私のことを気に病まぬよう、自分をお利口さんで賢い子として偽ってしまったのだ。子どもからすれば親を喜ばせたいのは自然の欲求で、それ自体に窮屈や違和感は全くと言っていいほど感じなかった。しかし時が流れ、親に認められるだけが自分の幸せでなくなると、突然今までのことが正しかったのかだとか、自分の内々で喜びと成すかということを考え始め、そしてついに神様に背を向けた。私の選んだ道は幸せで、愛する夫と愛する息子たちを手に入れた。ただ、私がそれまでに培った神様という存在はあまりに強大で、厳格で、その怒りは天災や疫病にまで及ぶかと思うと、毎晩眠れなくなるほどの恐ろしさであったのだ。私は、籠の中の鳥でも、安全な場所にいる羊でも、さほど苦ではなかったのだと思う。神様のためと思えば、迫害や孤立も立ち向かうことができた。ただひとつ、この人だけは譲れぬなどと思うことがなければ、平安のうちに行けたであろうし、人生の意味を問い続けることもなかったのだろうけれど、人を愛する心もまた愛深き神様がきっと創ったに違いない。この人を愛さずには死ねなかったのだろうとも。けれどもそういった類の痛みから単に逃げる、忘れようなどということは不実な気がして、適うはずもない神様を目の前にいざ言い開きを求められた時の言い訳を探すのだ。どこかで渦巻く罪悪感のような苦しみと、いつ私を滅ぼすやも知れぬ強大な力から逃れようと、日々日々言い訳をするのだ。何が正しかったとか、これはよくできていたとか、この時は仕方なかったとか、あれは運命だったなどと言いながら、許せない自分をなんとか体良く許してやる方法をずっと思案しているのだ。
要はそう、忠誠心と保身の狭間。
そもそもはきっと保身だったのだ。神様の近づこうなどと考えたのも、自分では何を考えることも何を成し遂げることもできない自分を、何かとてつもなく壮大なエネルギーに助けて欲しくてしたこと。ひどく寂しく心細い時に普遍的に傍にいる存在を信じたかったのだろう。それで一時的にでも強く自分を保つことができたのだ。
ただし変に知識などというものを得るとろくなことは考えない。ヒラヒラと美しく舞う蝶も、必死にダンスを踊る鳥も、誰にも聞こえぬ声で鳴くイルカも、全ては求愛のため。熱心に働くアリも、命懸けで狩りをするライオンも要は腹を満たすため。俗的な言い方をして醜く単純な欲望に忠実で必死なだけなのだ。いがみ合いや闘争が起きようとも裁く者はおらず、弱いものを見捨てたとてそれが冷酷者扱いされる訳でもなくただただ生き通す、それだけで生物は神様を賛美していることになるというのに。たまたま人間だったというだけで全く愚かしいことを思案しては、裁きなんぞ受ける前に自分の身を地獄へと突き落としている。
「無い袖は振れない」「成るようになる」という言葉が日本にはある。極めつけは「人事を尽くして天命を待つ」だ。今、自分にできることなどたかが知れており、神様のご意志に沿っているか間違っているかを自問自答しても限界がある。自分のちっぽけさを身に染みながら毎日をきちんと努めていれば、いつか神様のほうから啓示も下ろうということだと思う。
人が生まれつきに不完全ならば、それを丸ごと許す心も知らなければ、その不完全さゆえに死にゆく道を選びかねない。
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