寵愛紳士 ~今夜、献身的なエリート上司に迫られる~
とっさに一歩、階段の近くに戻る。
傘を届けることは難しいと判断したが、ならば落とし物として駅員に引き渡さなければならない。
(無理だ……)
すでにキャパシティオーバーで、冷や汗、過呼吸が止まらない。階段を駆け上がるにも、人に話しかけるにも、ひとまず精神を落ち着かせる時間をとらなければ、一歩足りとも動ける気配がなかった。
ひとまず、すぐそばにあったベンチに座ってみる。おしりがヒヤッと冷たくなった。
雪乃は傘を地面につけないよう膝の上で横に倒し、ロゴを見て呼吸を落ち着かせることに集中する。
タクシーの運転手に声をかけるチャンスは何度もあったが、タクシーに乗ること自体が恐怖になった。どこかに連れ去られるのではないか、という一般人には理解しがたい恐怖の妄想が彼女には駆け巡り、一歩を踏み出すことができない。
治まらない呼吸につられ、しだいに涙が滲んでくる。
「はっ……はっ……」
雪乃の手にある傘。
今はその温もりにしかすがることができなかった。
彼女は持ち手に刻まれたロゴを指でなぞりながら、ただ下を向いて耐えていた。