君が残した牡丹の赤
 小さい頃、彼とよくおはじき遊びをしていた。自分の手玉のおはじきを決めて、無造作に床へと広げられたおはじきに手玉をぶつけていき、当てると自分の物になる。手玉と、当てるおはじきとの間に指で線を引くとき、ほんの少しでも触れたらアウト。その様子を、真剣な眼差しで見つめる彼の瞳が好きだった。あまり体が丈夫ではなかった私のために、彼はいつもそのおはじき遊びに付き合ってくれていた。

「突然来ちゃって……ごめんね」
 不意に現れた私に、彼が目を見開いた。
 当然だよね……。
「いや……嬉しいよ。また、逢えるなんて、思ってもみなかったから……」
 久しぶり過ぎる訪問に驚いたようだけれど、すぐに納得したような表情で彼は私を温かく迎え入れてくれた。
 彼はあの頃と何一つ変わらない、穏やかでいて優しい笑顔を私へと向ける。
 彼は、今も両親の暮らす実家に住んでいた。今日はたまたま留守なのか、家にいるのは彼一人だった。
「おじさんとおばさんにも、会いたかったな」
「君のことを知ったら、きっと……、とても驚いただろうね」
 彼は、少しだけ可笑しそうに表情を緩めた。あの頃と何一つ変わらない笑みに、私の心が凪いでいく。

 おはじき遊びをするとき、彼は落書き帳を一枚破り、決まってお父さんの机の上にあるペンを持ってくる。それはちょっと高級な万年筆で、大人に向かって背伸びをしていたからなのか。それとも、単に書きやすいからだったのかわからないけれど、彼はいつもそれを手にしていた。
 私は、子供が高級な万年筆を勝手に使ったことを知ったら、彼のお父さんに叱られるのではないかとビクビクしていたものだ。
 彼はその万年筆を使って、無造作にラインを引いたマス目に、〇×で勝敗を記録していた。頭を使うゲームではなかったから、勝敗はいつも均衡していた。
 自分の手玉を決めるとき、私はとにかく綺麗なものを選んでいた。大抵は、赤色の混じったものを選ぶ私に「強そうな色だよね」って彼は白い歯を見せていた。
 彼が選ぶ色は、黄色の時もあれば青の時も緑の時もあって。その日の気分で手玉を決めているみたいだった。

「懐かしいなぁ」
 部屋の雰囲気は、すっかり変わっていたのだけれど。彼という存在と、その家の持つ匂いと言うのかな。それが何も変わっていなくて、懐かしさを呼び起こした。
「そうかな。色々と置いてるものも、変わったと思うけど」
 昔にはなかった綺麗な木目のテーブルの上に、彼が淹れたてのコーヒーを置いた。
「あったかいうちに」
「ありがとう」
 マグカップに入れられたコーヒーは、少しだけ酸味のある、香り豊かなものだった。
 昔は学習机が置かれていた場所に、今はシンプルで、でも使いやすそうな仕事机が置かれていた。マグカップを持ったまま、机の上に置かれているノートブックや立てかけられている書籍を眺める。
「仕事、大変?」
「まー、今はどこの仕事も大変だろう。救いは、やりがいがあるってとこかな」
 彼の仕事は、ディスプレイデザイナーだ。陳列の配置や、色彩の演出。照明技術など、クライアントからたくさんのことが求められる。とても神経を使うだろうけれど、彼にはよく似合っている気がした。
 あの頃、おはじきを選ぶ時も、その日の空模様や私の服のデザインや色。それらを見て感じて、おはじきを選んでいたように思う。昔から、そういうことを考えるのが好きだったのだろう。
「ねぇ。おはじき、まだ持ってる?」
 彼は少しだけ得意そうな表情をすると、書棚に付随している小抽斗を開けた。
「もちろんだよ」
 小抽斗の中から、綺麗なガラスの器に収まる色とりどりのおはじきが彼の手の上に現れた。懐かしすぎるそのガラスの粒たちに自然と目じりが下がった。
「おはじきって、昔は上流階級の遊びだったんだって」
「へぇ。じゃあ俺ら、上流階級だったんだ」
 彼が可笑しそうに笑った。
 それから机のそばに行き、勝敗を書く紙を選ぶ。昔は落書き帳だったけれど、彼が取り出したのは方眼用紙だった。それに、万年筆だ。
「どうしたの、それ」
 彼は、高級そうな万年筆を手にし、私に見せてくれた。キャップを開けてみると、ドイツ製の海外メーカーでモンブランだった。ペン先には、モンブラン山の標高4810の刻印と、トレードマークのロゴが入っていた。アフターサービスが充実しているから、一生使い続けられる代物だ。
「親父が就職祝いにくれてさ。憶えてる? 昔はよく親父の万年筆を勝手に使ってて」
「憶えてるよ。私何言わなかったけど、内心では見つかって叱られたらと思ってビクビクしてたんだから」
 クスクス笑うと、彼も笑った。
「叱られはしなかったけど、おはじきの時以外でも黙ってよく使ってたから、親父は気がついてたみたいだな」
 高校の時、自立したら買ってやると言われたことがあるらしい。そして、自立した今。彼の手には、素敵な万年筆が握られていた。どれほどの時が経ち、彼が社会人として成長したかということだ。
「よし。勝負だ」
 フローリングの上に、彼がおはじきを重ならないように広げた。彼の手によって無造作に置かれたおはじきたちは、窓からの光を受け、あの頃の思い出をよみがえらせるかのように生気を取り戻し、キラキラと輝き私を魅了した。
「知ってた?」
「ん?」
 何を?
 そう言うようにして私のことを見る彼に、ずっと黙っていたことを話すことにした。改めて言葉にすると、照れくささに心臓が少しだけ落ち着きなく騒ぎ出す。
「あの頃、私がいつも赤い色を選んでたでしょ。あれはね――――」
「あ、ちょっと待って」
 話す私の言葉を彼が慌てて遮り立ち上がると、おはじきの収まっていたのとは別の抽斗を開けた。
 中から取り出したのは、小さな小箱だった。
「目にした時に、君に似合うだろうなってね。渡せないと思っていたから、よかったよ……」
 彼は、少しだけ寂しげな表情をしながら、その小さな箱を私へと差し出した。
 開けてみて。そう促すように、彼が一つ頷いてみせる。
 手にした小さな小箱を開けてみると、中には赤い色をした牡丹柄のおはじきが二つ収まっていた。
「おはじきを模したピアスなんだ」
 彼が照れくさそうにして笑う。
「素敵」
 テーブルに小箱を置き、一つを手にする。髪の毛を耳にかけ、耳たぶの傍に持っていき合わせてみせた。
「うん。やっぱりよく似合う」
 彼が瞳を潤ませながら笑顔を浮かべた。
「ありがと……。ごめんね……」
 どうにもならないことに、私はそう言うしかなかった。
 彼が私へと手を伸ばす。その手が私の頬に触れる。触れたその手に私は手を重ねる。
「もう、時間がないのかな……」
 私は、力なく頷いた。
 私の体が、少しずつ色を失っていく。それを見るのが辛いとばかりに、彼がそっと唇を重ねる。あの頃と同じ、壊れ物を扱うように優しく唇が重なった。おでこをくっつけたまま、彼は切なそうに吐息を漏らす。
 あの日、病室であなたのことを待ちながら、苦しくなっていく胸に最期の時を知った。もっと、あなたと話がしたかった。あなたと一緒に、外を走り回ってみたかった。いつか手を繋いで、体のことなど気にせず、はしゃいでみたかった。私があなたと唯一遊ぶことのできたおはじきだけが、私の大切な思い出。
「待って……。まだ、もう少しっ」
 彼が悲痛な面持ちをする。
 こんな風に現れて、私は二度もあなたにそんな悲しい顔をさせてしまったね。
「どうしても、もう一度会いたかったの。我儘でごめんね……」
 喉の奥が震え、頬に涙が伝う。彼の瞳も波を打っている。
「俺は、知っていたよ。君が赤いおはじきを選んでいた理由を。俺が言ったからだよね。俺が、君には赤がよく似合うって言ったからだよね。自惚れているわけじゃないよ。だって、俺には確信かあったから。君は俺のことが好きだし。俺だって、君が大好きだったから。だから、待って……。まだ行かないでくれよ――――」
 願うように、祈るように、彼が私を見つめる。
 消えていく感触。頬に触れた手の温もりも、あなたがくれたキスも、遠ざかり、薄れ、消えていく。
「……ありがとう。大好きだよ――――」


          ∮・・~・・∮・・~・・∮・・~・・∮


 薄れゆく彼女の体。頬に触れた感触も、触れた唇の柔らかさも幻とは思えない。強く抱きしめて、この胸に引き寄せていたら、君はまた俺のそばにいてくれるようになったのかな……。
 片方だけ置き去られた赤い牡丹の花は、凛としているのにどこか儚げで、まるであの頃の君のようだった。
 現実世界に取り残された片方だけのピアスが、君がここにいたという事実を残してくれた――――。

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