騎士団寮のシングルマザー


 夫と別れ、十歳になった娘の手を引く。
 有坂歩美(ありさかあゆみ)はこれから九州にある実家に帰るところだった。
 駅に向かう為の横断歩道を待ち、腕時計を確認する。
 電車までは十分。
 新幹線も切符は買ってある。
 荷物はすでに送り、家は引き払った。
 夫は俳優。
 売れない俳優だ。
 金銭面に余裕が一切なくなり、この先の娘の人生を考えると付いて行けなくなったので別れる事にした。
 彼もそれを悲しげに受諾。
 お互い、本当はそれ以外の道があればと心の中で思っていたと思う。
 でも、少なくとも歩美の両親は許してくれなかったのだ。

(彼には才能があると思う。でも、親の言う事も分かる。……これで良かったのかな……まあ、役者として成功したらまた結婚すればいいとか……無責任な事言われたし、本人にも言われちゃって、なんかもう、わけ分からなくなっちゃったけど……)

 我ながら優柔不断だ、と溜息を吐く。
 それを見上げてきた娘、真美(まみ)に微笑む。
 離婚が原因で学校で色々と同級生に言われたらしい娘は、最近笑顔が少ない。
 離婚だけでも幼い我が子にはストレスだっただろうに。

「おじいちゃんとおばあちゃんの家、田舎だから新しい学校も子どもが少ないんだって。別の学年の子と一緒にお勉強するんだってよ? 真美、小さい子のお勉強教えてあげたら?」
「…………うん」
「…………」

 ふい、と娘から目を背けられる。
 あからさまなそれに頰が引きつった。

(ああ、気まずい。この子の世話はずっとあの人がやってたからな……)

 俳優の彼は舞台の時以外ずっと歩美に付きっ切り。
 赤ちゃんの頃からおしめを替えたりミルクをあげたり、おねしょの布団を取り替えたりお風呂も着替えも……。
 コールセンターで働く歩美より、彼は余程真美の側にいた。
 それなのに父親から引き離されて、完全に空気が悪い。
 十歳の娘は大人が考えているよりも遥かに賢く、そして多感だ。
 両親が離婚した理由も、祖父母の反対の理由も、自分自身が母方に引き取られた理由が経済面の理由からだと理解してなにも言わない。
 それがまた歩美には息苦しく感じた。
 コールセンターなら実家から車で三十分ほどの町でも募集している。
 親は農家なので食べ物には困らないだろう。
 彼が引き取るより……。
 頭では分かっていても心がついてこないのだ。
 そんな娘の心境を思うと本当に、本当に心苦しくなる。
 やはり自分の選択は間違っていたのではないか。
 ぐるぐると頭を駆け巡る答えの出ない悩み。

 ピピー、ぱぽう、ぱぽう……。

「あ」

 信号が青になりました。
 機械的な声に顔を上げて、娘の手を取る。
 拒まれなかった事に安心して、一歩踏み出した。
 交差点内はすでに多くの人が渡り始めている。
 ゆらゆらと陽炎がコンクリートの道路を揺らす。
 今年の夏も暑そうである。

「え? なに、やばくないちょっと!」

 誰か、年若い娘さんが指差す。
 数人がその声にそちらを向く。
 歩美も走り出した人があまりにも慌てていたので、その背中を向けた方向を見てみた。
 目を剥く。
 ギィーン、という音。
 普通乗用車が一メートルのところ……そう、目の前にあったのだ。
 フロントガラス越しに運転手の老人と目が合う。
 娘を庇う余裕すらない、と頭の片隅で、スローモーションの世界の中で思い至る。

 死ぬ。

 とても単純な答えが出て、その答えになにも抵抗が出来なくて愕然とする。
 それでも真美だけはと体を動かそうとした。
 世界が真っ白になる。

 死んだ。



 そう思った歩美を、誰かが揺さぶる。

「……おい、おい! 大丈夫か!」

 男の人の声だ。
 かろうじて助かったのだろうか?
 ぼんやりと目を開ける。
 草。
 そう、草が見えた。

「……………………」

 草?
 アスファルトの道路ではなく?

「え?」
「気が付いたか! 大丈夫か!?」
「あ、え? は、はい?」

 ガバリと起き上がる。
 起き上がる事が出来て、そこに混乱が生じた。
 草の上。
 そして森の中。
 声を掛けてきた男性は洋服でもリクルートスーツでもなく鎧!
 目を見開いた。
 そして、木々の隙間から見える青空。
 青空を貫くように佇む城。
 鎧の男は淡いクリーム色の髪、緑色の瞳と外国人にしか見えない。
 車に飛ばされて近くの公園でコスプレでもいていた外国人に見つかった……いやいやそんなバカな。
 頭を抱えていると、草を分けた足音が近付いて来る。

「団長! 成功したそうです!」
「! そちらは?」
「分からん、急に光が落ちてきて……そこに彼女がいた。どうやら怪我をしているらしい。魔物に襲われたのかと……今声を掛けていたんだが……」
「光、ですか?」
「…………」

 鎧の男が増えた。
 派手な緑の髪と目の鎧の男。
 対照的な赤い髪と紫の瞳の鎧の男。

「大丈夫、か? その、見ない格好だが……なぜ城内に? それにその怪我は一体どうした?」
「……………………」
「言葉が分からないのでしょうか?」

 状況が分からず、そしてぐるぐると頭が掻き回されるような感覚。
 それでもすぐに思い出した。

「真美……」

 辺りを見回す。
 いない。
 自分だけだ。

「! 真美! 真美! 娘……私の娘が! いない! 知りませんか! 私の娘! 真美といいます! 十歳の女の子で、今日は黄色いワンピースを着ていました!」
「え、あ、む、娘?」
「娘! 娘です! 一緒にいたはずなんです! でも車が、車が来て、それで真っ白になって……娘は! 真美はどこ! ご存じありませんか!?」
「っ、落ち着け!」

 淡い金髪の男に縋り付く。
 しかし、相手も困惑気味。
 その事を悟ると、歩美は立ち上がった。

「っ!」
「怪我をしていると言っただろう!」
「平気です! 真美を探さないと……!」

 膝から血が滲んで、立ち上がった途端痛んだ。
 だが、そんな事を気にしていられない。
 あの子はどこだ。
 あの子の無事な姿を見ないと、落ち着くなんて無理だ。
 森に向かって名前を呼ぶ。
 悲鳴じみた声が出た。
 そのうち痛みも気にならなくなり、すいすいと歩けるようになる。

「真美! 真美ー! どこなの! 返事してぇ!」
「落ち着け! 捜索するのなら我々も協力する! 君一人で探すよりはその方が早くに見付かるだろう!」
「っ!」
「特徴をもう一度詳しく教えてくれ。歳は十、と言っていたな? 黄色いワンピース……髪と目の色は? それと、靴だな。髪型も……」

 次々に挙げられる質問と、真剣な眼差しにゆっくり息を吐き出す。
 知らず知らず強張っていた体から、わずかに力が抜けた。
 彼の言う事は、最もだ。

「あ……か、髪は、髪は黒、少し、上がると言われました。目も黒です。髪型は肩くらいまでで、今日は、結んでいませんでした……靴はスニーカーです。白い……」
「聞いたな。ウォルは手の空いている者をとにかく集めてきてくれ。ハーレンは城に迷子の問い合わせを。もしかしたら別な場所ですでに保護されているかもしれない」
「はい!」
「分かりました」
「君は一度我々の詰所で怪我の手当てを。ついでに、娘さんの特徴を書き留めたメモを作る。情報共有の為だ。協力を」
「…………、…………は、はい」

 案に『歩き回るな』と言われた。
 その事を理解出来る程度には、冷静になったのだろう。
 手を引かれ、森を歩くと次第に膝の痛みがじゅくじゅくと広がっていく。

(い、痛い……)

 血はすでに固まっているが、範囲が広い。
 なにがどうなっているのか。
 あんな速度で車に突っ込まれたなら死んでいてもおかしくはないだろう。
 しかし、膝の以外に特に痛むところはない。
 服はかなり汚れている。
 地面に擦れて穴になっているところもちらほら。

「っ」
「大丈夫か? …………」
「え?」
「乗れ。その方が早い」

 男がしゃがみ込んで、背中を差し出してきた。
 これは……まさか「乗れ」という言葉とともに導き出した答え。

「え! い、いえ!」
「娘さんの捜索に一刻も早く戻りたいなら乗れ」
「…………うっ」

 そう言われてしまうと、選択肢は一択になる。
 恥辱に耐えつつ「お邪魔します」と消えそうな声で漏らし、素直に背中に乗り込んだ。
 冷たい鎧の下に感じる体温。
 ほんの少し汗の匂い。
 がしゃん、と金属の擦れる音。

「しっかりと掴まっていてくれ。滑るだろう」
「あ、は、はい。すみません……」
「そういえば名前をまだ聞いていなかったな」
「あ、すみません……えっと有坂と申します」
「アリサカ?」
「あ、有坂です」

 ニュアンスがおかしい。
 二回目も、同じように「アリサカ?」とニュアンスがおかしい言い直しをされる。

(み、見た目からして外人さんだし……仕方ないのかな? いやいや、でも、そもそも……)

 森の木々の隙間から見える城。
 駅の近くにこんな城も公園もない。
 それに、駅に向かっていたのになぜ森の中にいたのだろうか。
 まさか、あの高齢者ドライバーが轢いたあと証拠隠滅とばかりに歩美を近くの公園に捨てていった……。
 さすがにその考えは自分でも飛躍しすぎだろう、と首を振ってかき消す。
 あんな老人にそこまでの事が出来るとは思えないし、横断歩道付近には人がたくさんいたのだ。
 誰かが救急車や警察に連絡しているはずだ。

「…………」

 思い出しただけでも手に汗が出てくる。
 冷や汗だ。
 全身の熱が引いていくような、そんな感覚に襲われる。
 ニュースで増えているとは言われていたが、まさか駅を目前に、まさか自分が、あんな目に遭うなんて。
 明日は我が身とはこの事か。

「どうした、急に黙って」
「あ、いえ……あ、あの、失礼ですが貴方は……」
「ああ、失礼。俺はリュカ・ジェーロン。騎士団の団長を務めている」
「…………そ、そうなんですか、すごいですね」

 これは、入りきっている人、だろうか。
 だとしたら優しく付き合ってあげるのが大人というものだ。
 目を閉じて一人頷き、同意してあげる。
 外人さんはコスプレが大好きなイメージがあった。
 それにしては、とても立派な鎧だと思ったが。

(本物みたい。なにでで出来てるんだろう? プラスチック……じゃないよね、なかなか温まらないし。鉄は重すぎると思うし……)

 などとまじまじ鎧を観察している間に森を抜けた。
 森を抜けて最初に現れたのは広場だ。
 そして、訓練所のようなところ。
 その奥に建物がある。
 塔のようなところと、平屋のような建物。
 どちらも日本では見かけない形。

(え? こんなところ駅の側に……ない、よね? あの高齢者ドライバー、私を一体どこに捨てていったの?)

 老人一人では到底なし得ない。
 さてはあの老人、とんでもない権力者か?
 その権力で人を雇い、自分の事を遠い場所に捨てていった、と勘ぐった。
 しかしそれも、建物に入り、椅子に座らせられ、リュカと名乗った男が目の前に跪き、歩美の膝の上に手を差し出した瞬間に消し飛ぶ。

「かの者を癒せ。ヒール」
「ッッッッ!?」
「……他に痛む場所はあるか?」

 彼が呪文のようなものを呟いて、手のひらから光が漏れた。
 その光が膝に降り注ぎ、暖かい、と感じたら血の固まった膝は綺麗さっぱり元通り。
 さすがに破れたストッキングは戻っていないが……怪我が消えた。
 恐る恐る触れてみるが、両膝とも怪我がすっかり治っている。

「え? え? えっ?」
「? ……ああ、聖霊術が珍しいのか?」
「せ、せ、せ?」
「聖霊術だ。君には見えないか?」
「っ?」

 辺りを見回す。
 彼が指差した方向を見ても、なんにもいない。

「?」
「まあ、そういう者の方が多いから致し方ない。さて……いや、しかし本当に奇妙な格好だな君は……隣国から逃げてきた奴隷、な訳はないな。汚れているが身なりが悪いわけではなさそうだし……それに、名前も変わっている……ふむ」
「ど……?」

 奴隷と言ったか?
 なんだそれは、とまた混乱してきた頭を抱える。
 ぐるんぐるんと頭痛が再開した。
 どうなっている?
 夢だろうか?
 しかし頭は痛い。
 手の甲を抓ってみても痛い。
 そして、破れたストッキング。
 膝は綺麗に治っていて、手のひらはまた変な汗が出てきた。
 金属のぶつかる音に目線を上げると、リュカの腰に剣を見付ける。
 鎧同様、本物のような剣だ。

「まあ、いい。ええと……まずは娘さんの特徴を書き出しておこう。他にも思い出した事があったら教えて欲しい」
「……………………あの、ここ…………」
「うん?」
「…………こ、こ、ここは……日本、ですよね?」
「…………。なに?」

 険しい顔で聞き返された。
 頰を冷や汗が伝う。
 ぐるんぐるん、頭の中にあり得ない考えが駆け巡っていた。
 だが、少なくとも……日本で『セイレイジュツ』などという治療法はないし、これだけ立派な剣はハロウィンでもないのにお目にかかれない。
 なによりさすがにあの長さの剣は模造でも警察官に止められる。
 そう、ありえない。
 ありえないが、うっかり聞いてしまった。

「……………………まさか……」

(まさか……っ)

 奇しくも二人の脳裏に同じ予測が打ち立てられた。
 まさか————


『異世界召喚』、という言葉が浮かんだ。
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