いつの間にか結婚したことになってる

1 まず遠回しに断った

 笛の音が聞こえた。
 思い出したのは三年前、例によって借金に追われた両親と四国から列車に乗って出発した時のことだ。
 田舎の方はまだ笛で発車の合図をしているんだなぁと思いながら、新天地について両親と笑っていた他愛ないひととき。
 その笛と同じ音が響いたということは、そろそろこの列車は発車するということだ。
 あの時は両親と一緒にカウントした。父がさあそろそろだぞと言って、母がそうねとうなずいて。
 三、二、一。
 ほら、ガタン。
 始まりの振動を体全体で感じ取って、撫子は目を開ける。
 目の前の座席に座っていた青年と目が合った。緑色の瞳に細長い瞳孔を見返して、まずはてなと思った。
 人体において瞳孔は縦長だっただろうかと首を傾げて、青年の白い髪にこれまた違和感を覚える。まだ二十歳くらいで輝くような白髪なんてなかなかない。
 しかし黒いスーツ姿がやけに似合っていて、フレッシュマンとは違う雰囲気がする。膝の上に乗っている白い尻尾とのコントラストが鮮やかだ。
 尻尾? そういえばさっき、もっと違和感のあるものを見た。
 そこで青年の頭に猫のような耳が二つ出ていることに気付いて、撫子は声を上げた。
「耳!」
 思わず席を立って、頭上の荷物置きに頭をぶつける。
 声もなく頭をおさえてうずくまると、そっと手が差し伸べられる。
「ああ、ありがとうございます」
 撫子は青年の手を借りて席に座りなおしたが、やはり視線は彼の耳に行く。
 カチューシャなのか。でも今ぴくりと動いた。ということは可動式のハイテク猫耳なのか。そしてそれをつけている意味は?
「失礼ですが、その耳はいったい」
 とりあえずきいてみると、青年は短く答えた。
「アイデンティティーです」
 人格に触れてはいけませんね。
 一人納得したところで、撫子ははっとした。
 青年の耳が何なのかより、もっと重要な問題がある。
「あの、この列車はどこ行きなんでしょうか?」
 ずいぶん天井が低いが、撫子が知る限りここは電車の中だと思う。
 青年はその質問に喜んだようだった。
「いい質問です」
 どうしてこの列車に乗ったのかは思い出せないが。撫子が首をひねっていると、青年はうなずいた。
「この列車はあなた方の言うところの、あの世行きです」
 にっこりと愛想よく笑って、青年は続ける。
「あなたは死んだんです」
 撫子はその言葉を信じたのではなく、起き抜けで頭が働かなかったので反射的に相槌を打った。
「コッペパンで?」
「なぜコッペパンが出てくるんです?」
「いえ、思い浮かんだのがそれしかなくて」
 軽い頭痛を覚えて撫子は頭を押さえる。
 どうも先ほどから頭の中の回路が混線して記憶がつながらない。
 列車に乗った記憶どころか、どこへ行くつもりだったかも思い出せないなんて。
「難しく考えるのはよしましょうよ」
 青年の緑の猫目がぎゅっと細められる。
「あなたは生きている間ずいぶん苦労してきました。ようやく煩わしい生から解放されたんです。もっと喜んでいいことだと思いますよ」
「そういうものですか」
「ええ」
 撫子は曖昧にうなずく。
 言われてみれば生前苦労した気がするし、死ぬような目にも遭った気がする。
 でも死んだことに全然ぴんとこないので、喜んでいいのか悲しんでいいのかもわからなかった。
「ただ本当の死は終着駅まで行って出来上がりですので、今のあなたはまだ土に還る前の生ごみみたいなものです」
「ずいぶんなたとえですが、幽霊ってことですか?」
「そうともいいます」
 愛想全開の輝かしい笑顔とは対照的に、言っていることは結構シビアな人だった。
「ただあなたが死なない手段が一つだけあります」
「ほう?」
「終着駅の前で降りてしまえばいいんです」
「おお!」
 ナイスアイディア。撫子はうなずきながら続きを促す。
「そこから逆の電車に乗って戻るんですか?」
「戻りたいんですか? 苦労と苦痛しかない生の世界に」
 訊き返されて、撫子は思わず言葉に詰まる。
「いえ、しんどいのと苦しいのは嫌です」
「結構です。そんなあなたを私は愛しています」
 今、変な言葉が聞こえた。あまりに突拍子もないセリフだったので撫子は聞こえなかったふりをすることにした。
「停留所で下りて、この世の世界の住人になってしまえばいいんですよ」
 彼はそこで撫子の両手を取って顔の前で握る。
「撫子。死にたくなければ、私の妻になりなさい」
 撫子は数秒間手をつかまれたまま沈黙した。
 さて、そろそろ寝起きというだけで適当に相槌を打てなくなってきた。
「私の両親はあなたにどれほどの借金をしたのでしょうか」
 見ず知らずの人に嫁になれと脅迫される理由としては、両親の借金が最有力候補だった。
 警戒心をまとって恐る恐る言った撫子に、彼はまるで動じなかった。
「あなたのご両親は関係ありませんよ。私はあなたの名前が気に入りました。名前に無を持っているのが、いかにも生に執着がなくすばらしい」
 彼は感心したようにため息をついて告げる。
「私たち死出(しで)の住人は生き汚い人間が嫌いですが、あなたはそういう匂いがしない。しかも死に急ぐ様子もない。実に無生産で無為に暮らしてくれそうじゃありませんか」
「人の好みはそれぞれですが」
 撫子はとりあえず話についていこうとする。
「たかが名前で妻を決めていいのでしょうか」
「おや、名は重要ですよ。死者たちが最後まで覚えているのは名前なんですから。性格や記憶などというものは、列車で終着駅に運ばれるまでに消えていくものです」
「でも私とお兄さんは初対面ですし」
 彼はぴくりと猫の耳を動かした。
「コッペパンで覚えはありませんか?」
「コッペパン……」
 撫子は首をひねる。生前の記憶というものをたどりよせるように集めてみると、確かにコッペパンがはっきりと頭に残っている。
 もしかして自分はコッペパンを喉に詰まらせて死んだのだろうか。
「何て情けない死に方を」
 ちょっと涙ぐむと、青年は手を伸ばして撫子の頭に触れた。
「つらければ思い出さなくてよろしい」
 子どもにするように頭を撫でられる。
 撫子はしぱしぱとまばたきをする。先ほどから笑顔と裏腹に言葉がきつい人だと思っていたが、その手はとても優しかったから。
「名前ですか」
 撫子は青年に問いかけていた。
「お兄さんの名前は?」
「オーナー」
 彼は王者のようにその名前を告げた。
「キャット・ステーション・ホテルのオーナー。ホテルの支配人を生業にしております」
 職業名が名前というのは不思議だった。けれどまっすぐみつめてくる目と向き合って、その言葉を疑う必要はないように思った。
「ありがとうございます。お褒めにあずかった名前もまあ、私の一部です」
 撫子は頭をかきながら上目づかいでオーナーをうかがう。
「ただ私は未成年で、いきなり結婚というのも気が早いお話ですので。少しこの収まりの悪い頭と相談する時間が欲しいのですが」
「それもそうですね」
 オーナーはうなずいて、意外とあっさりと猶予をくれた。
「では我々の目的地に着くまでに決めてください」
「目的地?」
「次の停車駅です」
「到着まで何時間くらい?」
「さあ。死出の世界では時間は適当です。太陽も月も昇りませんから」
 不便でないのだろうかと撫子は首をかしげた。しかしここに来てまだおよそ少しのハイパー初心者の撫子では、お前に何がわかると片付けられてしまいそうだった。
 死者にとっては死んでからの時間なんてどうでもいいかもしれないし。そう思って、いやいや死んだと認めるのは早すぎないかと冷や汗を流す。
「私と結婚するのはそんなに抵抗のあることですか?」
 そんなことを撫子が考えていたら、オーナーは宝石じみた緑の瞳を向けてくる。
「異種婚なんて昔からよくあることですよ」
「いしゅこん?」
「種族の違う者同士の婚姻のことです。あなたは人間、私は……見ればおわかりでしょう?」
 撫子はオーナーの耳を思わず見て、いえ、と言葉を挟む。
「いえ、私はオーナーが猫であることに不満があるわけではなくて」
「では何があなたを迷わせているんです?」
「無難なところで価値観の違いとか」
 離婚理由の定番だそうだ。もっともカチカンとは何ぞと訊かれても、撫子もわかっていない。
「そういうものは結婚してから考えればよいでしょう」
 オーナーは終始完璧な笑顔だ。だから何を考えているのか読めない。
 それが不気味でもあって、撫子は首を横に振った。
「じゃ、じゃあちょっと列車の中を散歩してきますね」
 とにかくこのまま彼と顔を合わせていると雰囲気に飲まれてしまいそうで怖い。撫子は慌てて立ちあがった。
「つ……っ!」
 また頭を荷物置きにぶつけて、撫子は頭頂部を押さえてうずくまる。
 この列車の座席、どう考えても天井が低すぎる。恨めしい思いとそんな天井に負けたような悔しい思いが混じり合ってうめいた。
「二度目ですよ。あなた、先ほどの失敗覚えてます?」
 うわ、ストレートに嫌味言われた。
「あ、あはは。失礼しました」
 撫子が気まずさにわたわたとして立ちあがろうとすると、再び手を取られて助け起こされた。
「お馬鹿さん」
 ふっと息を漏らして笑われる。それは見守るような優しい笑い方で、撫子はみぞおちの上辺りが変な感じがした。
「貨物車両には近付かないようにしなさい」
 通路に出た撫子に、オーナーは一言だけ声をかけた。
 それから気まぐれな猫のように、そっけなく窓の外に顔を向けて目を閉じた。
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