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「はぁ………」


 退勤後、夜に染まる住宅街を歩きながら、ついため息が漏れた。

 仕事を終えてから、ずっと千里さんのことを考えている。

 柔らかな表情も、穏やかな声も、甘い口説き文句も、優しい仕草も、全てが演技だったのかと思うと胸が張り裂けそうだ。

 無理をさせていたのは私?

 美冬さんへの情を捨てきれない間も、私を傷つけないように隠し続けていたのだろうか。

 そんなの、隠されていた方が苦しい。この気持ちが芽生える前に、この結婚は政略結婚以外のなにものでもないと宣言してくれればよかったのに。

 ぐるぐる考え込む中、やがて家の前まで来てしまった。ぼんやりと明るいランプの光が玄関に灯っている。

 気持ちが落ち着かずに足踏みしていると、ガラリと引き戸が開いた。


「おかえり」


 顔を出したのは、木綿の着物の袖をたすき掛けした千里さんだ。

 奥から、味噌汁のいい匂いがする。

 彼の顔を見た瞬間に複雑な思いが込み上がったが、つとめて平穏を装いながら答えた。