バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
第1章 御曹司にマーキングされました
 リラックスチェアから起き上がって軽く背伸びをする。

 ランチタイムに三十分ほどお昼寝を楽しむのが私の最近の日課だ。

 といっても、ここは南国リゾートではない。

 ベリーヒルズビレッジ。

 財閥系ディベロッパーによって展開される複合型ビジネスシティだ。

 オフィスビルの窓には五月の青空が広がり、足下に目をやれば都心部であることを忘れるほど緑豊かな光景が心を和ませてくれる。

 うちの会社では昼寝が奨励されていて、パーティションで仕切られた仮眠スペースも用意されている。

 食後に眠くなるのは自然の摂理。

 それを我慢するくらいなら、むしろ眠ってしまえというわけなのだ。

 学生時代のあだ名が『眠り姫』で、午後イチの授業で睡魔に抵抗できなかった私にとっては夢のような職場だ。

 もちろん、理屈では正しくても、社会人がなかなかそんな贅沢を許されるものではない。

 だが、うちの会社『ハピネスブライト』は長寿と健康をサポートするライフスタイル企業として、働く環境についても積極的に提案していくのが社是だから、実際にそれを取り入れてみるのが当たり前になっているのだ。

 仕事着も基本的にカジュアルウエアだし、ベリヒル花火大会の日はオフィスの特等席からお酒と食事付で絶景を堪能させてもらえる。

 そういう社風ということもあって、常日頃から無駄な業務、不便だと感じる点を常にリサーチし、社員の声を広く集めている。

 常識にとらわれずに、働く上での無駄を徹底的に省くことが、社員の健康、幸福増進につながる。

 それが我が社の若き社長が掲げているポリシーなのだ。

 そういった観点から、うちの会社には場所や時間を指定して集まる会議がほとんどない。

 その代わりとして活用されているのがオンライン目安箱という意見交換システムだ。

 社員が考えたアイディアを社内ネットの掲示板に掲載すると、部署や職種にかかわらず自由に意見が書き込まれていく。

 良いアイディアには自然と意見が集まるし、その業務の部外者からも意見が書き込まれることで、飛躍した議論が生まれる場合もある。

 それを集めて論点を整理し、管理職に上げていくのが私の業務だ。

 一見くだらないつぶやきのように思える一言が解決の糸口になっていることもあるし、最初はささいな愚痴だったものが思わぬプロジェクトに発展することもある。

 実際、本社がベリーヒルズビレッジに移転したときに、社員家族優先保育所を設置することになったのは、こういったアイディアが昇華したものなのだそうだ。

 今ではベリヒル保育所は社員以外にも開放していて、他社エリート家族からの申し込みが絶えないし、その保育所から要望が出たアレルギー完全対応のケータリングサービスは、ベリヒル総合病院との共同研究で社員食堂のビジネスモデルに進化した。

 そんなふうに社員が発案した改善点に対して社長が評価を下し、社員全員のボーナス査定に反映される仕組みになっている。

 その結果、職場環境の風通しも良く、社員のモチベーションはおとろえることがない。

 ハピネスブライト社は十年前に創業して、わずか五年で上場を果たし、その後も増収増益増配が続いているらしい。

 そして、不要となった会議室は仮眠室に変貌し、私は毎日昼食後に心置きなく昼寝を楽しむことができるというわけなのだ。

 この夢のような職場にないのはただ一つ。

 眠り姫を起こしに来てくれる王子様だけだ。

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