きみが空を泳ぐいつかのその日まで



「スカートが汚れてるけど、どうした?」
「ちょっと、転んだだけ」

帰宅した私を見るなりお父さんは声色を変えた。
転んだと答えたのは間違いだった。ちゃんと答えを用意しておけばよかった。

どこでどうして? とさらに追求されて結局しどろもどろになる。

「駅前のパン屋がある……」

そう口ごもっただけでわかりやすく怪訝な顔をされた。

小さい頃、駅前のあの大通りで私は大怪我をしそうになったことがあるらしく、実はそのルートで登下校することは前々から禁止されていたのだった。その時のことがよみがえるのか両親はあの通りを毛嫌いした。

あそこを通らなければ学校に行けないわけじゃない。
でも足が自然とそっちへ向いてしまうのは、両親が隠していることを千絵梨から聞いてしまったことがきっかけだった。





「ほんとういうと、みーは助けられたんだよ」
「なにそれ、ほんとう?」


5年生くらいだったと思う。
台風が来るといって、私たちは真っ暗な部屋の窓辺に持ち寄ったタオルケットで手づくりのベッドをつくり、そのなかで嵐を待っていた。

窓ガラスがガタガタと震えて、ときおり瀕死の獣の鳴き声みたいに風が唸って、滝のような水流が窓の上辺からたえまなく落ちつづけるのを、くっついて見あげていた。

「お父さんとお母さんが話してたのを聞いちゃったんだ。階段から落ちそうになったのを、助けてくれた人がいるんだって」

一瞬の稲光のなかに千絵梨の顔がうかびあがったのを見てタオルケットを強く抱きしめた。蒸し暑い夏の夜だったけれど、その時の冷たい汗の温度をなぜだか今もはっきり思い出せる。

「妹を助けてくれてありがとうございますってお礼言いに行きたいよ」
「ほんとー。どんな人なのかな?」

純粋な感謝の気持ちでいっぱいになったっけ。

「それはわかんないけど、今もちゃんと連絡取ってるみたいだよ。みーのことがきっかけで案外仲良しになっちゃったのかもね」
「どうして連れていってくれないのかな?」

あれからだいぶ時間が過ぎて大きくなったからこそ、直接頭を下げるべきなんじゃないか。そう思ったら両親の行動に全然納得ができなかった。

「この辺の人じゃないみたいで、連れていくタイミングが合わないって言ってたよ。ほらうちら学校があるし。お父さんもなかなか休みがとれないから次はいつ挨拶に行こうか、なんてふたりで話してた」
「そっかぁ、確かにね〜」
「なんかさぁ、ドラマみたいでちょっとワクワクするよね」

千絵梨はいたずらな笑みを見せたけど、私はなんとなく腑に落ちなくて。

「大人になったらその人に会いに行こっ。ひとりでも行けるもんね」

なんて格好つけてみた。

「そんなの、あと3年もすればなれるよ」

大人びた口調で答える千絵梨の頬に窓をながれる水流の透明な影がうつるのを、不思議な気持ちで見ていたのを思い出した。

だけどそれから3年以上が過ぎても自分はすこしも大人になんかなれず、だからなのか、その人の手がかりを何ひとつ得られないまま今に至ってしまった。

そんな煮え切らないひっかかりが、きっと私をあの通りに向かわせているんだと思う。

「私、助けてくれた人にお礼を言いたいの」

キッチンのなかに向かってそう言うと、お父さんはしていたことのすべてをやめてこっちを向いた。どきりとして、ポケットのなかのあの紙を、ぎゅっと握りしめる。

「なんでそのことを?」

お父さんの目に、くっきりと戸惑いが見えた。

「それくらい、とっくに知ってるんだよ」

もう子供じゃないと、付けたす勇気が出なかった。

「恩人がいることは本当だけど、お礼ならお父さんとお母さんとできちんと出来ているし、先方のご都合もあるから今はまだ待ちなさい。近いうちにおまえを連れていけると思うから」

こういうとき、大人は正論をまくしたてる。

「とにかく何も気にせず、つぼみは自分のことだけをきちんとやりなさい」

予想通り強引に会話を強制終了させてしまった。だから決めたんだ。もうお父さんのお弁当は食べないって。
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