きみが空を泳ぐいつかのその日まで
涙は止まり、金縛りがほどけたように自然と声がでた。クラスの人気者とふたりで並んで歩いていることが不思議で、ここ数日のことだって少しも現実味がない。

「足、まだ痛いのにごめんね」

今日の体育だって見学してたし、きっと傷口は乾いていないはず。

「何言ってんの。俺らの体の細胞って新陳代謝を繰り返して毎秒生まれ変わってんだってさ。ほら」

久住君はそこで自転車をとめて屈伸をして見せたけど、すぐに短く呻いてしまった。

「だ、大丈夫?」
「やべ……傷開いた……」

思わず吹きだすと、久住君もバツが悪そうに、でも楽しそうに笑ってくれた。
彼が笑ってくれると、空気が変わる。
人や車の往来もほとんどない住宅街の夜道だって、少しもこわくない。みどりさんにも、またすぐに会えそうな気がしてくる。

「門限平気? 家の人に連絡入れたら?」
「ううん。うちお父さんとふたり暮らしなんだけど、今日は出張でいないから」

帰りを待ってくれている人が自分にはいないんだと思うと、夜風のせいで体が冷えきっていることさえ、どうでもいいと思えた。

「だから風邪ひいてもいいんだ」

凍えたつま先を、湿った靴のなかで動かした。

「なんでそう思うの?」

久住君の澄んだ瞳が、一直線に私を見下ろしていたから、私も勇気を出して彼を見上げた。

「みどりさんが、教えてくれたの。風邪をひいたら、具合が悪いことを素直に認めて寝込めばいいだけだって」

まっすぐにつぐんでいた口元が動かない。彼は何も返してくれなかった。
たぶん、しゃべりすぎてしまった。
間がもたなくて、すっかり乾いてしまった胸のリボンが無造作に揺れるのを、ひたすらながめた。

「息つぎしなかったね」
「え?」
「ちゃんと意見できるんじゃん」

もう一度顔をあげたら、もう探すまいと決めていたあの笑顔とぶつかった。彼に憧れてはいけないとわかっているのに、吸い込まれてまばたきすら忘れた。

「息すんの上手になった気がする」
「えと、あの……」
「潔く風邪ひこう発言もかっこいいと思うし」

ぴゅぅと風が吹いて首をすくめたら、久住君はなんの迷いもなくパーカーのファスナーを首まで引き上げてくれた。

「でもそんだけ濡れてれば当然寒いよね。こうしたらちょっとマシじゃない?」
「……あ……ありがとう」

突然前が、見えなくなった。
視界ごとすっぽりと、頭はフードに覆われていた。

「てるてる坊主みたい」

胸の鼓動を聞かれそうで、あわてて胸元をぎゅっと掴んだ。フードのなかに、彼の穏やかな声がいつまでも残ってる。

「なんか俺ら似てない? うちも三年前まで親父と二人だったし」

びっくりした。私と久住君に共通点なんてあるわけがないのに。

「なんでそんな嫌そうな顔すんだよ」
「してないよ、だってさ……」
「スイカに糖度があるみたいにさ、人には純度ってあるじゃん? 俺こんなんだけどユキが生まれてなんか魂つるつるになった気がしてんだよね。神崎さんもたぶんそっち系でしょ」

魂つるつるって……そんなの聞いたことないけれど、彼が魅力的なのはきっと誰もが知っていて、自分はその対極側の人間だ。
姉にすら必要とされていない私と彼が似ているなんてあり得ないよ。

花の香りが蝶を呼ぶように、誰もがその音で夜空に花火を探してしまうように、久住君はいつだって誰かの心を惹きつける。

みどりさんだってそう。
ふたりのそばにいると、自分は許されていると勘違いしてしまう。こわばっていた気持ちだってゆるゆるとほどけていくのがわかる。

「久住君て、おもしろいね」

ありがとう、いつも助けてくれて。
そこまで言う勇気はないから精一杯笑った。みどりさんの柔らかな笑顔を思い出しながら、それを真似て笑った。

久住君はそんな私を真顔で見ていた。
綺麗な目で静かに、けれども強く見つめられて、やっぱり耐えきれず目をそらしてしまう。

「あの、ごめん。なんか生意気だったね」
「そんなことないよ」
「でも……」

いつもの癖で下を向いてしまいそうになる。

「ほら、顔上げる!神崎さんは笑ってた方がいいって、絶対」
「はっ、はい!」

久住君にほっぺたを思い切り引っ張られてしまった。思いがけない痛みとゲキにびっくりしておっきな声が出た。

「俺がアンパンマンだったら迷わず神崎さんに顔あげるから」
「あ、あの……」
「やっぱ幼児ギャグは通じないか」

そんなことに気づく余裕もないわたしを見て、久住君はけらけらと笑いだした。

「で、なんだかんだここが(うち)
「……え!」

言い放ってすぐ先にある小さな門を潜ると、彼は玄関を豪快に開けて母さん風呂の準備してー!と部屋の奥に届くほどの大声で中に呼び掛けた
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