きみが空を泳ぐいつかのその日まで
息つぎ
翌日の朝、もしかしたらと覚悟していた机も椅子もちゃんとそのままあって、いつも私を睨んでいた戸田さんたちの関心はもう別のところに移っていた。

「宿題のノート集めまーす、ほら神崎さんも出して?」

クラスメートのなんでもない声かけにびっくりした。

「……早く」
「はっ、はい」

それは長く持つことの許されなかった普通の日常で、間違いなく久住君が私にくれたものだった。

「神崎さんは提出しなくて大丈夫。えー、急ですが彼女はご家庭の事情で大阪に転校することになりました。時間の都合で、このホームルーム終わりで帰ることになっています。じゃ、挨拶して」

チャイムと同時に教室に入ってきた担任に手招きされて、慌てて席を立った。

「……短い期間でしたが、ありがとうございました」

教壇の脇でみんなに小さくお辞儀をした。

意地悪から解放される。
もう怯えたり惨めな気持ちにならなくてすむ。

でも、たぶんもう二度と、久住君に会うことはないだろう。

葛藤はあったけど、赴任先についてきてほしいと言ったお父さんの気持ちを最終的に受け入れたことは、きっと間違いじゃない。

教壇からは、自分の席からぼんやり眺める景色とは何もかもが違って見えた。

誰とも目が合わないようにぐっと目線を上げたら、飛行機が初夏の淡い空をふたつに分けて飛んでいくところだった。

いつも孤独で、不安でどうしようもなかった。辛くて虚しくて、なにもかも消えてしまえばいいと思っていた。

だけどそのすべてが必要なことだったと、教えてくれたのは彼だった。

だから、精一杯笑った。
笑ってたほうがいいよって、いつか久住君が言ってくれたから。
嬉しかったな、あのとき。
とても、とても。
彼の席は朝からずっと、空席のままだった。


帰宅して、ここを発つまえにどうしてもお墓参りをしたいと話したら、お父さんは一枚の写真を持ってきた。

それは、必要があればと久住君のお父さんから最近預かったという葵さんの写真だった。

それは誰もが知っているブランドの美容部員を辞めて、駅前のパン屋に勤め始めた頃のものらしい。

黒眼がちな大きな瞳が印象的で、頬は明るく輝いて、柔らかそうな短い髪を潔く後ろでまとめ、口角を上げて笑う顔が久住君と重なった。

「お父さん。この服って……」

彼女が鮮やかな若葉色の服を羽織っているのを見て、頭のなかに星が瞬くのを感じた。

「それはきっと気に入っていたんだろう。棺にも似たようなのが入っていた気がするから」

お父さんの話を聞いていると、さっき脳裏でまたたいた星が弾けて、その熱量があけた穴からひとつの真実に触れてしまったような気がした。

なんの根拠もない。けれど、私はこの人を知っている。

「みどりさん」

彼女の名前は久住葵さん。
それなのに、どこか時空を越えた場所からポストに投げ込まれたギフトみたいにその名前が降ってきて、戸惑いではなく、ちぎれるほどの恋しさが込み上げてきた。

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