―17段目の恋― あのときの君とまさかの恋に落ちるとき
龍道コーチに気を付けろ
これまでテニスをやったことも、やりたいと思ったこともない透子が急にテニスをやりたくなったのは、昨今のテニスブームによるものだ。
数年前、男子テニスのとある選手が日本人で初めて世界ランキング5位に入った。180センチに満たないテニス選手としては小柄な体と、23歳の実年齢よりうんと若く見える少年のようなルックスでコートを俊敏に駆け回り、巧みな技術と戦略で相手の動きを止めて球をきめていく。そのプレーが海外ではニンジャ、サムライなどと評され、世界中のテニスファンを魅了している。可愛カッコいい。このスターの登場で、日本ではちょっとしたテニスブームが訪れた。そしてそのブームにまんまと乗っかってしまったというわけだ。

勤めている大手通販会社のベネフィットにインドアの高級テニススクール「ドラゴンウエイ」が入っているのを見つけると、入会費タダ、受講料が40%オフ、さらに透子の家から電車で10分の距離にあるという好条件にのまれてすぐに入校することにした。

透子の会社はテレワーク絶賛推奨中なので、働く時間も場所もわりと自由になる。そこでレッスン料が安めの平日の昼間コースに12月から通い始めた。金曜の午後3時から始まる初めてクラス(グリップの握り方させわからないずぶの素人のためのクラス)に入校してから早5か月。気づけば季節は冬から春、春から緑薫る初夏へと移っていた。

運動神経はいい方だと自負していた。多分3か月くらいで初級に上がれるだろうと思っていた。それなのに――。

いまだにラケットを振るタイミングも、ラケットとボールの距離も合わないし、どこまでボール飛んでくるかの予測もできない。大きなラケットの面をボールがなぜこうも素通りしていくのか、自分でも首をかしげるくらい空振りもする。テニスは透子の予想をはるかに超えて難しいスポーツだった。

「ボールに突っ込んでいかない!」
「打点が高い!」

容赦ないイツキコーチの叱咤にいたぶられ、透子はレッスンのたびに心が折れそうになる。

このスクールで唯一の女性コーチであるイツキコーチは、小さな顔に日本人形のような切れ長の目と、ふっくらした唇がキュッとおさまっている。顔は韓流アイドルみたいにキュートなのだけど、テニスは全くキュートじゃない。細い体のどこにそんな力があるのかと思うほどパワフルだ。なんて関挙げていたら、黄色い球が体をかすめて飛んでいった。

「うわぁ」

つい頭を抱えてコートにしゃがみ込む。

「球を怖がってどうするのよ」

しゃがんだ透子の右肩すれすれにまた球が撃ち込まれ、透子はしゃがんだまま左に横跳びした。


「テニスがこんなに難しいとは思わなかったなあ。ストレス解消になるどころかこんなにストレスになるなんて。侮ってたな」

会社のデスクで顎下までのストレートヘアを指でかき上げながらぼやくと、隣席の田淵が「侮るほうがおかしいでしょ」と頬をひくつかせた。
だって、と透子は切れ長の目にすねた表情を浮かべた。

「まったくのテニス素人が、それも何事にも習得に時間のかかる中年が、週1回、たった1時間半のレッスンで上達するわけないわよね、とか思わなかった?」

学生時代テニス部だったという田淵は、「すぐに上手くなるから」という透子の言葉を鼻で笑っていた。

「思わなかった」
「そうだよね、自分は運動神経いいからすぐに上達するはず、なんて言ってたもんね」
「だって本当にそう思ったんだもの。まさかこんなに進歩しないなんてびっくり」
「まさかこんなに進歩しないなんてびっくり、なんて思う方がびっくりだよ。永遠に初級に上がれないかもしれないよ」

嫌みな笑みを浮かべると、田淵はパソコンに顔を戻して、カチャカチャカチャカチャ高速タッチの音を響かせた。
< 1 / 130 >

この作品をシェア

pagetop