「コインってさ。」
人通りが多くない通りに面した、客はそれほど多くない喫茶店。割り勘をするために並べた硬貨を眺めながら遥は言った。
「絵が書かれてる方が表って知ってた? 」
「え?じゃあ一円とか数字があるほうが裏ってこと?」
知らなかったと、驚きながら亜弓は手慰みに、一円玉をくるくる回す。
「そうそう。」
一円玉くるくる。
食事が終わり、食後のコーヒーも飲み終わり、割り勘の用意も整っている。あとはレジで精算するだけ。しかしこの、のどかで、ゆるやかな空気はそれを阻む。寒い冬の日に布団から出たくないのと似ている。あと1分、あと1分、あと5分と延長を繰り返す。ふたりともこの後の用事がないというのも良くなかった。中高生のように門限もない。ただこのゆったりとした空気に耐えられなくなるまで。制限時間があるとすればそれは店員の声掛けか、あるいは閉店時間でしかなかった。
経過する時間を、回転する一円玉が巻き取る。一円玉くるくる。
「コインってさ。」
数秒前と同じ言葉にデジャブのような感覚を覚える亜弓。
「表の反対が本当に裏ってどうやって証明すればいいんだろうね。」
今度は豆知識ではなく疑問であった。
「えっと、どういうこと?」
「今、私は十円玉の裏側を見ているけど、その反対側に必ず平等院鳳凰堂が書いてあるとは限らないってこと。裏側の反対は表ではあるけど、それは裏表の概念でしかなくて、コインの性質みたいな意味での裏表を証明するには、なんか少し弱いのかなって。まあ、万が一って言うくらいの可能性の話だけど。」
「ふーん。じゃあ例えばさ、鏡で、自分が見ている面の反対側を写して、それを見ればいいんじゃないの?」
かろうじて汲み取った「遥が言わんとしていること」に基づいて提案してみる。
「鏡が必ず真実を教えてくれるかは分からないじゃない。鏡がもし、そのものの『反対』を写すなら、そこに写った表面だって疑わしいし。そりゃ物理的に考えたらそんなことはないかもしれないけどさ、それだって本当かは分からないし。」
「それだと科学を疑うってこと?そんな昔の科学じゃないんだし、間違ってるなんてことはないんじゃない?」
スイッチオフの使用率0%の頭ではまるで話が理解できなさそうだ。少し頭を使う気になった亜弓は、脳みその使用率を50%くらいにまで引き上げる。
「でも今だって、千年後には昔だよ?今で言うところの和歌を詠んだり刀で戦ったりした時代だよ?」
「じゃあ遥が死ぬまでに新しい科学を打ち立てて証明してみてよ。」
「そういうことじゃないんだよなぁ。」
「じゃあ、遥的にはどうやって証明すればいいと思うの?」
「それがわからないからこうやって悩んでるんじゃん。」
答えが出ない問答。いや、単に「出ない」というよりは「出ないし、出さない理由があっても出す必要はないから出そうとしない」という方が近いかもしれない。お互いにそれをわかっているから、暗黙の了解のように、結論を急がないのだろう。のったりと進む時間に少し変化を与えて、流れが淀んでしまわないようにしながら、一方で繋ぎ止めている。しかしきっと、この会話に結論が与えられた時、この穏やかな半永遠は急速に終わりを迎えてしまう。
カランコロン。
また一人、老人の客が出ていく。店を出た老人は静かな道を歩き何処かへ消えていく。その足取りがゆっくりとして見えるのは、果たして老人の歩く速さの問題なのか、それともこの店の煤けたガラス窓のせいなのか、あるいは依然として喫茶店に漂うこの空気のせいなのか。誰ともわからぬその人を見送る。
亜弓が視線を正面に戻すと、遥は横一列に並んでいた硬貨を積み上げていた。
「そろそろ帰ろうか」
え?もういいいの?と思った。問いを投げかけた遥からその提案があるなんて。亜弓は問いを受け取ったという立場の役割を誤解していたようだ。終わりを提案する権利は亜弓に与えられた、遥が手放した権利だと思っていた。しかし考えてみれば、それは限定された条件のもとでの話でしかなかった。例えば、充分な答えが得られそうにない時、問いに意味がない時にはその限りではない。
積み上げた硬貨の塔を、上からすぽっと覆うようにしてそれらを手の中に収める。セピア色の店内漂う空気を、短い金属音がかすかに波立てる。別にどうということもない。電話一本でいつでも会えるし、ラインをすればどこにいようとつながることができる。科学の力に頼れば、物理的な距離なんて無視してしまえる。しかしどうしてだろうか。この空気の中に、この空気とともにまだふたりでいたい。短い金属音は空気よりもむしろ、亜弓の心を揺らしていた。
「どうするの?」
正体不明の感情は、とりあえず五文字の言葉となって亜弓の口からこぼれた。
「どうするって何が?」
何が、とは。遥から問いを投げかけておいてほったらかしたままとはどういうことか。
「コインの裏表の証明。」
「ああ。」
そうだね、と呟きながら両手の中で、硬貨をジャラジャラと鳴らす。
「うん。そうだね、反対側は亜弓に任せるよ。」
「科学とか当たり前を信じないのに、私を信じるの?」
当然の質問である。いくらでも嘘をつくことができる一人の人間を、絶対の真理である科学や、多数決の原理に基づいた当たり前よりも信用するなんて理にかなった答えではない。面倒くさくなって適当に済ませてしまおうという魂胆だろうか。
「どんな人かわからない、名前しか知らないような人が証明した科学とか、会ったことのないたくさんの人が勝手に決めた当たり前なんかよりも、目の前にいて、こうしてこんな話に乗ってくれる亜弓の方がよっぽど信頼できるよ。もし、仮に亜弓が嘘をついたとしても、それに騙されたのならそれは私のせいだし。どんなに塗り重ねて取り繕っても、少なくとも目の前にいる亜弓は亜弓だしね。」
そうか。もともと答えのいらない議論だったのだ。だからこそ、『普通に』考えたら非合理的なこんな答えだって可能なのだ。亜弓は、一つ『答え』が出た気がした。
夕日がさし始めた喫茶店。客は亜弓と遥だけ。無音ではないけれども静かな店内。ここでの時間はいつまでも緩やかに流れる。そしてふたりは見送るドアベルの音ともに、『科学』と『当たり前』にあふれた町へと帰って行くのだった。

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