ヴァイスラント公国のワルツ~陛下の恋、僕が叶えてみせます!~

1 お姫様の言う通り

 もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来る。
 星読み台から国中にその知らせが走ったとき、カテリナはまさかそれが自分の運命を大きく変えるとは思ってもみなかった。
 いつものように王城に出勤し、朝礼の後に剣技の訓練、そろそろ増えてきた後輩の騎士たちの指導をしてから書類仕事をする。カテリナは騎士ではあるものの、カテリナが生まれてから戦争は一度もなく、時々偉い方の護衛をする以外は文官と変わらない仕事をしていた。
 山と積んだ書面をめくりながら、ありがたい、今日の上司の機嫌はいいようだとうなずいていたところで、上司の上司から呼ばれた。
「カティ、ちょっと」
 カテリナの上司は多少むらっ気があるが、その上の室長は軍人に向いていないほど温厚な方だ。ただこの「ちょっと」の後に何かしら言いづらいことを告げる癖があるので、カテリナは緊張をまといながら頭を垂れて室長の元に参上した。
「ご指摘をいただきたく存じます」
 肩をすぼめて叱られるのを待ったカテリナに、室長は困ったようだった。
「それが、私にも何を指摘していいのかわからないんです」
 カテリナが疑問を表情に浮かべるか迷ったとき、室長は声をひそめて彼女にだけ聞こえるように言った。
「カティ、本日から祝祭が明けるまで、あなたの任を解きます」
「……は」
「異動……みたいなものだと思ってください」
 ものすごく歯切れが悪い異動内示だった。どう考えても不吉で、上官に絶対服従がまかり通る職場でも聞き返すくらいは許されてしかるべきだった。
「はい。ご命令に従います」
 それを一も二もなく素直に聞き入れるのがカテリナで、彼女はぺこりと一礼しただけだった。
 顔を上げた彼女は、後輩たちに混じって訓練をしていると新人に間違われるというつるんとした童顔、大きな澄んだ目で室長を見返していて、大丈夫なんだろうかと心配するのはいつも上官の仕事だった。
「もしかしたらあなたはとても幸運なのかもしれません」
 室長は事の次第はわからないながらも、はなむけの言葉を贈った。
「建国以来の有事を、一番近くで見ることになるんですから」
 室長からカテリナに下された辞令は、正午にいつも通りの私服でローリー夫人のサロンへ参上することだった。
 カテリナはその通りに従った。一旦宿直室に戻って私服に着替えて、ふと鏡に映った自分を見た。
 カテリナは男として騎士団に入団して、普段も男として生活している。華奢で小柄な方だがどうにか少年で通してきた。
 女性的なものは肩に届く長さがある豊かな黒髪だが、いつも縛って帽子に入れていた。私服も目立たない灰色の上着と、そっけないズボンでまとめるといった感じだ。
 男の格好には理由がある。過保護な父が誘拐されないようにと男の格好をさせていたのと、カテリナ自身もこの国で珍しい黒髪を隠したいからだった。
 中性的な顔立ちとすとんとした体型とはいえ、カテリナも十七歳。そろそろ性別を偽るのは無理がある気もしている。
「いつも通りって言われたから」
 けれど女の子の格好で外を歩いたことがないカテリナは、今日も帽子をしっかり被って髪を隠すと、一度うなずいて部屋を出た。
 ローリー夫人のサロンは王城の中庭に面したテラスで、夏の近づく今、豊かな草木の薫りが風と共に舞い込んでいた。
 サロンは紹介が必要なところも、ドレスコードが厳しいところもある。ところがいつでもどなたでもどうぞと公言するローリー夫人のサロンは違った。近所のパン屋に買い物に来るような気楽な格好で訪れたカテリナも、快く迎え入れてくれた。
「僕のことはお構いなく」
 お菓子と紅茶が振舞われたが、カテリナは正装の代わりに緊張を着こんできたのですぐに隅っこに引っ込んだ。必要以上に辺りを見ることもなく、壁の一部のような思いで壁際の椅子に腰を下ろす。
 お辞儀をして一口紅茶に口をつけたきり、笑いさざめく令嬢たちや自慢話をする青年士官たちに混じることもなく、真剣に室長の命令の意図を考え込んでいた。
 何か自分の仕事に問題があったのだろうか。難しい顔で思考の迷路に落ちていて、周りがざわめいたのに気づくのが遅れた。
「まあ……ようこそいらしてくださいました。どうぞこちらへ」
「お気になさらないで。少しお部屋をお借りできるかしら?」
 どなたか人目を引く方が出入りされたらしいが、とはいえ仕事中だからきょろきょろしちゃいけないと思うカテリナだった。肩を叩かれて振り向いた先に近衛兵がいても、自分は膝に紅茶でもこぼしていただろうかと別の意味で緊張した。
「隣室へ」
「は、お言葉のとおりに」
 そう言われるとそのとおりにする性格は、今が平和な世でなければ災いしていたに違いない。
 大人になったらお父さんと同じ仕事がしたいと願って騎士になったカテリナに、心配でたまらないと男の格好をさせた父の愛は、それほど的外れでもなかった。
 隣室に一歩踏み込むなり、カテリナは目をぱちりと瞬かせた。そこではマリアンヌ王妹殿下が座していらしたからだった。
「殿下!」
 王城に仕えていることと王族に対面することはまったく意味が違う。たとえるなら豪邸に届け物をすることと豪邸に住むことくらい違う。
「よろしいのよ。硬くならないで」
 カテリナは血の気が引いて膝をついたが、マリアンヌは微笑んで向かいの席につくよう促した。
 自分に何が起きたのかと膝が震えたものの、ここでもカテリナは王妹殿下の言葉どおりに従った。カテリナがお顔を拝見するのは失礼と目を伏せたまま席につくと、マリアンヌは優雅にティーカップに手を伸ばしたようだった。
 マリアンヌはカテリナの三つ年上の二十歳、幼少の頃から多くの言語と芸術をたしなむ、国民なら誰でも憧れる姫君だった。今はみつめるのは失礼に当たるが、カテリナもその豊かに波打ったブロンドと青い瞳を肖像画で目にするたび、ただただまぶしく見上げていた。
「こちらを見て、カテリナ」
 普段は隠している本名を呼ばれて、カテリナはようやく正面からマリアンヌを見返した。
 青い瞳と目が合って、そこに浮かぶ不思議な親しみに少しだけ緊張を解く。
「……まっすぐで、きれいな紅茶色の瞳。きっと、あなたなら」
 マリアンヌは柔らかく微笑むと、姫君らしい凛とした空気をまとって口を開いた。
「もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来るのはご存じね。明日から祝祭が始まって、最終日にはワルツを踊る」
 それは星読み博士が告げた、ヴァイスラント公国の建国行事だった。カテリナももちろん国民の一人として、最後の日にワルツを踊るつもりでいた。
「国王のワルツは、建国のときに精霊と特別な約束をしているの。国王の最後のワルツは最愛の人と踊らなければならない。……でも陛下はまだ、独身」
 カテリナはうなずくべきか迷った。それは国民の密かな心配事だった。独身の陛下はこれから始まる伝統の儀式が果たせないのではと、人々は案じていた。
「私ども臣下は」
 マリアンヌは妹というよりは臣下の口ぶりで切り出した。
「陛下に、精霊との約束を果たしていただかなければなりません。ゆえに私は、これから十日の間に三人の姫君を陛下に引き合わせるよう手配しました」
 建国のときに精霊が持っていたといわれる青い瞳でみつめて、マリアンヌはカテリナに命じた。
「あなたには側でそれを見極めてほしい」
「見極め……ですか」
 マリアンヌはうなずいて、正面からカテリナをみつめて言った。
「カテリナ。その澄んだ目で、陛下を最愛の人のところに導きなさい」
 建国の降臨祭が始まるその前日。お姫様からカテリナに、直々に下った命令だった。
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