落廓蟲
陸 八千代の正体
別れる前、陽炎は八千代と約束した。
なにか分かった際は文で知らせること。無理して調べようとしないこと。虫に気付かれると厄介だから、この件は長期的に調べたいということだった。
陽炎はそれほど熱心に調べてやるつもりはなかった。ただの暇つぶしのようなつもりでいた。
しかし周囲はそんな事情など知らぬものだから、ことの発端である楼主はついに陽炎が本気になったかと小躍りしているし、たんまりご祝儀を弾んでもらえた他の女郎達は八千代のことを大層褒めていた。
そんなわけがない、と陽炎とこよりだけはどこか落ち着かない気持ちでいたが、広まった噂は今更鎮火しようがなかった。
陽炎は鈴屋の奉公人である長次郎に頼んで『いと屋』と八千代のことを探らせることにした。長次郎は二つ返事で引き受けたが、「花魁も男のことが気になるようになったとは────」、とにやにやにながら見て来たものだから、陽炎は「馬鹿を言いなさんな」、と長次郎の頭を煙管で叩いた。
八千代のことを探らせたのは気になるからだが、それは男としてという意味ではない。協力するのならある程度知っておくべきだと思ったからそうしたまでだ。男としての八千代になどかけらも興味はなかった。
一刻ほどして戻って来た長次郎はいい情報が得られたのか、得意げな様子で陽炎に詰め寄った。
「花魁、聞いてくだせえ」
「言われなくとも聞きんしょう。それで、なにか分かったでありんすか?」
「どうも、『いと屋』はここ数年のうちに出来た店のようで。元は京にあった製糸業を営む老舗の工房だったそうですが、越後屋なんかの大店を相手に品物を卸すようになって江戸に進出したそうです」
「随分羽振りがいいようでありんすが、そんなに儲かっておりんすか」
「店の入り口まで覗いたんですが、店は客でいっぱいでしたよ。客は女がほとんどでしたが、男もいる。店構えも立派で、自分ところの工房で作った糸を使った小物やら反物やらが売られてました。ありゃなかなか若い娘が好みそうな店でした。鈴屋に売りに来ねえのが不思議なくらいです」
「それで? 八千代様はどういうお方か調べたんでありんすか」
「へぇ、若旦那はいと屋の三代目の御当主様で、京から一人出てきて店を任されているのだとか。若くて商売上手。おまけにあのつらで、お客の目当てのほとんどはあの若旦那じゃないかって言われとります」
「そうじゃありんせん。人柄のことを言っておりんす」
「店のお客はとにかく褒めておりました。愛想もよくこざっぱりした態度で、男にしては勧め方が異様にうまいと。聞く限り優男のようです」
「優男?」
陽炎は思わず語尾を強めて聞き返した。
八千代のどこが優男だというのだろう。だとしたら先日の宴席での態度はなんだったのか。
店の客相手なら愛想でもなんでも振りまくのは理解できるが、自分に対しての舐めた態度はまるで理解できない。
「ま、花魁との噂のおかげでそのお客も随分嘆いてましたがね」
「そうでありんすか────ご苦労さんでござんした」
長次郎の掌に押しつけるように金一朱を預け、陽炎は背を向けた。調子のよい長次郎は「またご贔屓に」と仕事に戻った。
陽炎はしばし物思いにふけった。
────八千代様から聞いた話とまったく違う。
八千代は町奉行の息子だと言っていた。だが、本当に八千代が父親を手伝っているとしたら身分を公にして探すことは困難だ。
ならば彼の言った通り、いと屋は隠れ蓑で、今聞いた話は都合をつけるための偽りの身分、偽りの人格ということになる。
どちらが本当かまだ確定はできない。なにせ情報があまりにも少ない。まだ信用することは出来なさそうだ。
「────もっと確かな情報が必要でありんすな」
なにか分かった際は文で知らせること。無理して調べようとしないこと。虫に気付かれると厄介だから、この件は長期的に調べたいということだった。
陽炎はそれほど熱心に調べてやるつもりはなかった。ただの暇つぶしのようなつもりでいた。
しかし周囲はそんな事情など知らぬものだから、ことの発端である楼主はついに陽炎が本気になったかと小躍りしているし、たんまりご祝儀を弾んでもらえた他の女郎達は八千代のことを大層褒めていた。
そんなわけがない、と陽炎とこよりだけはどこか落ち着かない気持ちでいたが、広まった噂は今更鎮火しようがなかった。
陽炎は鈴屋の奉公人である長次郎に頼んで『いと屋』と八千代のことを探らせることにした。長次郎は二つ返事で引き受けたが、「花魁も男のことが気になるようになったとは────」、とにやにやにながら見て来たものだから、陽炎は「馬鹿を言いなさんな」、と長次郎の頭を煙管で叩いた。
八千代のことを探らせたのは気になるからだが、それは男としてという意味ではない。協力するのならある程度知っておくべきだと思ったからそうしたまでだ。男としての八千代になどかけらも興味はなかった。
一刻ほどして戻って来た長次郎はいい情報が得られたのか、得意げな様子で陽炎に詰め寄った。
「花魁、聞いてくだせえ」
「言われなくとも聞きんしょう。それで、なにか分かったでありんすか?」
「どうも、『いと屋』はここ数年のうちに出来た店のようで。元は京にあった製糸業を営む老舗の工房だったそうですが、越後屋なんかの大店を相手に品物を卸すようになって江戸に進出したそうです」
「随分羽振りがいいようでありんすが、そんなに儲かっておりんすか」
「店の入り口まで覗いたんですが、店は客でいっぱいでしたよ。客は女がほとんどでしたが、男もいる。店構えも立派で、自分ところの工房で作った糸を使った小物やら反物やらが売られてました。ありゃなかなか若い娘が好みそうな店でした。鈴屋に売りに来ねえのが不思議なくらいです」
「それで? 八千代様はどういうお方か調べたんでありんすか」
「へぇ、若旦那はいと屋の三代目の御当主様で、京から一人出てきて店を任されているのだとか。若くて商売上手。おまけにあのつらで、お客の目当てのほとんどはあの若旦那じゃないかって言われとります」
「そうじゃありんせん。人柄のことを言っておりんす」
「店のお客はとにかく褒めておりました。愛想もよくこざっぱりした態度で、男にしては勧め方が異様にうまいと。聞く限り優男のようです」
「優男?」
陽炎は思わず語尾を強めて聞き返した。
八千代のどこが優男だというのだろう。だとしたら先日の宴席での態度はなんだったのか。
店の客相手なら愛想でもなんでも振りまくのは理解できるが、自分に対しての舐めた態度はまるで理解できない。
「ま、花魁との噂のおかげでそのお客も随分嘆いてましたがね」
「そうでありんすか────ご苦労さんでござんした」
長次郎の掌に押しつけるように金一朱を預け、陽炎は背を向けた。調子のよい長次郎は「またご贔屓に」と仕事に戻った。
陽炎はしばし物思いにふけった。
────八千代様から聞いた話とまったく違う。
八千代は町奉行の息子だと言っていた。だが、本当に八千代が父親を手伝っているとしたら身分を公にして探すことは困難だ。
ならば彼の言った通り、いと屋は隠れ蓑で、今聞いた話は都合をつけるための偽りの身分、偽りの人格ということになる。
どちらが本当かまだ確定はできない。なにせ情報があまりにも少ない。まだ信用することは出来なさそうだ。
「────もっと確かな情報が必要でありんすな」