端午の節句が過ぎると、遊郭の女郎達は衣替えを始める。袷から単衣へ。江戸の暑い夏を乗り切るには多少なりとも工夫する必要があった。

 けれど、それでも暑いものは暑い。陽炎は起きるなり部屋の障子を開けた。開ければ少しは風が吹き込んで涼しいかと思ったが、風自体がなかったためあまり意味はなかった。

「ああ、ったく。暑いったらありゃしない」

 まだ春なのに、と流石の陽炎も不満を漏らした。そんなことを言ったところで暑さは変わらないが、言わずにはいられなかった。

「姉さん、湯屋でも行ったらどうでありんすか。どうせ内風呂は人でいっぱいでありんす」

「そうさね……」

 妓楼の中には一応風呂がある。だが、狭い中に何十人もの女郎が入ると寛ぐことなど出来ない。それゆえ女郎たちは吉原内にある湯屋を利用することがあった。

 こよりは行きたそうだ。妓楼の中にいても面白くないし、気分転換に湯屋に行くのもいいかもしれない。

「そうしんしょう。こより、用意しなんし」

「あい、姉さん」

 こよりは嬉しそうに準備を始めた。久しぶりの湯屋だ。喜びたくなる気持ちは分かる。

 湯屋は比較的妓楼のすぐそばにあった。吉原にはいくつか風呂屋があるが、店によって綺麗汚いがある。今日行くのはもちろん綺麗な方だ。

 鈴屋の暖簾を潜ったところで、同じように桶を持った女郎と出くわした。二軒隣の店、扇屋の夕霧(ゆうぎり)だ。

「おや、花魁も風呂屋かい」

「今日は暑いんでね。たまの贅沢でありんす」

「そうそう、花魁に聞きたいことがあったんだよ」

 夕霧は突然陽炎につい、と肩を寄せた。

 夕霧は他の店の女郎だから特別親しくはないが、顔を合わせれば話をする仲だった。商売敵同士だからと楼主同士はよその女郎と仲良くすることを嫌がるが、同じような立場で売られてきたと聞いて陽炎は親しみを感じていた。

「なんでありんすか?」

「いと屋の旦那に見染められたんだろう。どうだい、いい男かい?」

「なにかと思えば……」

 その話は八千代と会ったあと妓楼の人間に散々聞かれた。皆興味があるのだろう。八千代がどんな性格か、床技はどうか。金払いはよさそうか。

 陽炎が「知りんせん」と答えると、わざと隠していると思ったのか余計に躍起になって聞いてくる。最初の登楼からしばらく経ったから、そんな噂すっかり忘れ去られているものだと思っていた。

「……さぁね。男なんてみんな一緒さ。わっちにとっちゃ誰だろうと同じでありんす」

「そんなことはないだろ。なにせ『男ぎらい』の陽炎花魁で通ってるんだ。振らなかったってことは、本気で惚れたんじゃないのかい?」

 陽炎は八千代の不可思議な態度を思い出した。最初そのつもりはなかった。ただ楼主に言われて仕方なく相手しただけの男だ。目を引く存在であることには違いないが、心動かされるほどではない。

 だが、八千代は他の男とはどこかが違うような気がした。

「あの旦那さんは間夫になるような性格じゃありんせん。それに、わっちも間夫を作るつもりはありんせん。客は客。男と思うと寒気がいたしんす」

「噂に違わず男ぎらいなんだねぇ。間夫の一人も作らないで……よくこんな苦界で働けるよ」

 逆だ。男より上に立てる。だから吉原は外界よりもよかった。ただ、花魁でなかった場合は最悪だ。嫌いな男に股を開いて媚を売るなんて耐えられない。そんなことになるなら首を括った方がマシだ。

 お里が言っていた。「調子に乗っていられるのも今のうち」だと。それはあながち間違いではない。

 若い間はいいが、吉原には次々と新しい女郎が入ってくる。いくら花魁とはいえ、いずれは下火になる時が来るだろう。

 吉原を出たい気持ちは幼い頃から少しも変わっていない。出れるものならどうにかして出たいが、男の世話だけにはなりたくない。

 第一、身請けされたとしても先が明るいわけではない。それこそ若いうちだけだ。歳をとった後も面倒を見てくれるような親切な男ならいいが、金持ちの男が妾として女郎を身請けすることは珍しくなかった。そうなると余計に大変だ。

 どちらにしろ外のことを知らなければならない。そして生きてく力が必要だった。